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アパレル入社2カ月で「退社決意」男性が得た物

新卒入社から2カ月で転職を決意

「潤ってさ、クォーター・ライフ・クライシスなんじゃない? 仕事でやりたいこともいっぱいあるみたいだし、いろいろ迷っているよね?」

結婚に対して煮え切らない態度をとっていた村上さんは、かつて交際相手にそう指摘されたことがあるという。

村上さんの出身地は、昔から繊維業が盛んな北陸地方の某市。ファッション関係の仕事に就く親族が多かったことからアパレル業界を志望し、関東にある有名大学を卒業後はアパレルメーカーに就職した。そこから約3年半、10〜15店舗を担当するエリアマネジャーとして働いていたが、実は入社2カ月目にして、別の業界へ転職する決意を固めていたと語る。

「大量生産した服を売り減らすための在庫処分セールが常態化していたり、暇なときも販売員さんを1日中立たせてきれいに畳んで陳列している洋服を畳み直したり……そういう無駄の多さがすごく嫌でした。業界の構造的な不健全さを目の当たりにして、『アパレルって斜陽産業だな』と実感したんです」

就職先を選ぶうえで、パーパス・ドリブン(社会における企業の存在意義)を重視したり、SDGsに配慮したビジネスモデルかどうかに関心を持つ若者は少なくない。長い仕事人生を控えているミレニアル世代以下の人にとって、企業やビジネスの社会的意義は単なる“意識”の問題ではなく、自身のキャリアや生活に直結する問題だからだ。

このような感覚を抱いた一方で、村上さんは自身の仕事の待遇面についても強く意識するようになった。

「就職して間もない頃、とても魅力的な女性と知り合いました。親が医者で、その人自身も慶応大学卒で、大手企業でバリバリ稼いでいるような人で……女性として魅力的に感じる一方で、明らかな敗北感を感じてしまったんです。

今考えてみると、彼女とすごく付き合いたかったというより、『こんな女性と付き合える自分でありたい』という思いが強かったかもしれません。そんな気持ちを重ねるうちに、嫌な言い方ですが、『今の仕事は、高い学費払って大学を出た自分がやることなのか?』と疑問に思うこともありました」

中年の危機(ミッドライフ・クライシス)という概念がある。中年期特有の心理的危機を指す言葉で、その背景にあるのは加齢による身体的変化や、親しい人との死別、離婚などによる家族ライフサイクルの変化、職場で感じるさまざまなギャップなどだ。

「このままでいいのか」という不安を抱えている点ではQLCと共通する部分もあると言えるが、一方、QLCは若者ゆえ、恋愛での問題が絡まりやすい傾向がある。気力・体力的にも充実していて選択肢もなまじ多いだけに、迷い方もダイナミックなものになりやすい。村上さんの事例も、その意味で非常に象徴的だ。

「前職ではバイトが足りない店舗で店頭に立つこともあったし、待遇面で大学の同期たちと比べてしまうことも少なくなかったです。当時はつねに焦っていました。

田舎の地元では勉強や運動もできるほうだったので、もともと僕は自分に対する期待が高かったのかもしれません。社会人になっていろんな人と接するうちに、自分の仕事への誇りや自信を失っていきました」

終わりのない焦りと彼女との別れ

QLCに突入していった村上さんだが、そんな事態を指をくわえて眺めていたわけではない。むしろ、真面目な性格ゆえ、さまざまな模索をしていくことになる。

たとえば、英語の勉強。商品の在庫管理や仕入れ業務で海外の工場とやり取りしていた関係で、海外と深く関わる仕事に興味を持つようになり、異業種転職に向けて独学で英語の勉強を開始したのだ。

「民泊アプリ『Airbnb』を使って、外国人旅行者と交流したりしていました。当時は20人以上を自宅に泊めていましたね。いろんな考えに触れて、自分の将来を模索していました」

将来の仕事に役立つ具体的な見通しもないなかで始めた地道な努力だったが、ここで身につけた英語力が評価され、専門商社への転職に成功した。

しかし、本格的な迷走に入ったのはむしろそこからだった。新しい職場では、一緒に仕事をする人も取引先も、みな一流大学出身で海外経験も豊富なエリートばかりだったのだ。あまりの環境の違いにさらなる焦燥感と劣等感を味わうことになった。

「自分も何かしなければと思い、MBAを取得しようと思って社会人大学院などに通いました。でも、そこもエリート外国人とかが来る学校だったんです。課題が周りより全然こなせなくて、力不足を痛感させられる日々でした。ひとつ壁を乗り越えても、また次の壁が立ち塞がる……『少年ジャンプ』のバトルマンガみたいな状態でしたね(笑)」

そんな仕事での焦りは私生活にも影響し、転職後に交際を始めて3年間付き合った恋人との別れを経験する。原因は、お互い30歳の節目が近づくなか、村上さんがなかなか結婚の決断に踏み切れなかったことだった。

「当時の自分の状況で結婚してしまうことに、不安や迷いがありました。待遇面も含めて満足のいく転職ができたつもりでしたが、実際に入ってみると、外部環境によって今後大きく変わる可能性のある事業だと気づきました。加えて、当時は『洋服の仕事にも、新しく挑戦したい』と考え、模索し始めていた頃でした」

そうして、冒頭の恋人からの指摘につながったわけだが、キャリアアップのための挑戦を考えていくうえで、村上さんは結婚が足かせになると感じていたという。

そんな彼の話を聞いて、既婚の読者の中には「結婚は勢いが大事だよ」と言いたくなる人もいるかもしれない。しかし、村上さんは違う考えだった。

「僕の家庭は兄弟も含めて、昔からかなり仲良しな家族でした。だからこそ、結婚に対して高いハードルを自ら課して、余計に躊躇していた気がします。彼女と一緒にいること自体は全然苦ではなかったんですが、自分が思い描くような家庭を築ける自信がなかったです。まだまだ生活基盤や環境が大きく変わる可能性があるのに、“永遠の愛”なんて誓えないよ……と。最終的には彼女から『結婚できないなら、時間を無駄に使いたくない』と言われ、別れることになりました」

QLCにはロックアウト、ロックインという2形態があるとされる。それぞれ「ちゃんとした大人になりきれていないと感じる」「逆に、大人であることに囚われ、本当の自分を見失っていると感じる」という意味合いだが、村上さんは前者に当てはまるといえるだろう。連載第1回に登場した男性とは、同じQLCといえども、かなり違う印象を受ける。

副業で「自分を表現する」ことが心の拠り所に

恋人と別れたあと、村上さんは週末や平日夜を使って、個人でオーダーメイドの衣服の製造・販売の仕事を副業で始めた。実は、転職した頃から本業と並行して、師匠の元でオートクチュールについてのノウハウを学んでいたという。

「一度は見切りをつけたアパレル業界でしたが、オーダーメイドという形なら在庫などの無駄も出ないし、こだわり抜いて10年後も大切に使ってもらえる服をつくることができると考えたんです。オーダーメイドは、僕がアパレル業界で感じていたモヤモヤを解消できる手段でした」

小規模ながらも副業的に始めた仕事が軌道に乗ってきたこの1年で、村上さんの心境には大きな変化が生まれたという。

「自分を表現できる居場所や心の拠り所が新しくできたことで、他人と自分を比べてむやみに落ち込むことはずいぶん減りました。自分の美意識を詰め込んだものを、お金を出して買ってくれる人がいるのが嬉しいんです。

もちろん、今も本業の仕事はもっと頑張らないといけないと思っていますが、変に周りのビジネスエリートたちと真正面から競う必要がなくなったというか。言葉で表現するのがあまり得意ではない僕にとって、洋服づくりはかけがえのない自分の表現手段になっています。『美意識は、他のエリートたちにはないものだろ』という感覚があるんですよね」

一度離れたアパレルが、彼に自信を取り戻させた……人生とは不思議なものである。

また、オーダーメイドアパレルの仕事で確かな手応えを得たことで、恋愛面でも進展が訪れた。一度は別れた交際相手と、約1年の空白期間を経て、昨年の秋に結婚を前提に復縁したのだ。

「復縁は自分から持ちかけました。『なんであんなに嫌がっていたのに1年経って結婚したくなったの? 信用できん』と、かなり疑われましたけど……。でも、僕としてはきちんと向き合っているつもりで、先日も相手のお兄さんに会ってきたんです。今は結婚観も変わり、将来に対して少し楽観的になれたし、『どうにかなる』と思えるだけの度胸がつきました」

洋服を通じて自分の美意識や思いを表現し、そこに共感を寄せてくれる人たちと接するなかで得られる充実感と自信。それは村上さんを際限のない競争やスペック意識、劣等感から解放するのに十分すぎる威力を発揮したようだ。

「売り込みで交流会などに積極的に足を運んでも、思うようにいかず悩んでいたこともありました。自分で勝手にできるもんだと思っていたんですけど、ようやく自分の苦手を受け入れられた気がします。無理してきた自分を素直に認めることができてからは、肩の荷がおりてすごく楽になりましたね」

余計なプライドを捨てることで自分の人生観・仕事観がクリアになることもある。今を生きるアラサーにとっては、何かを選び取ることよりも、捨てるべき選択肢や諦めるべき自分の可能性を見定めることのほうが、ずっと深い自己理解が必要で難しいことなのかもしれない。