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DXを進めると組織に「新しい発想」が生まれる理由

「黒電話とは何か」がわかる世代の役割

「戦略」という言葉を聞いて、どういうイメージをおもちだろうか。ひと昔、いやふた昔前だったら、「組織の偉い人がつくるもの」だったかもしれない。企業の戦略となれば生命線であり、それゆえ「神聖で厳かなもの」だったかもしれない。

しかし、今はどうか。何かにつけて「戦略」という言葉が使われ、あちこちで目にするようになり、組織の偉い人ばかりではなく、ミドル、そして場合によっては若手も巻き込まれていく。今のデジタル・トランスフォーメーション(DX)戦略などは、その代表だろう。

DXを戦略として考えていくと、「その目的は何か」「何を目指せばいいのか」「そもそも、何から始めたらいいのか」というようなちょっと大上段なところから始まってしまうだろうが、そうしたところからいったん、離れて考えてみるのがおすすめだ。

戦略コンサルタントである筆者は、クライアントとの会話で、次のような問いかけをして、DXについて議論をすることがある。

あなたの会社はスマホのアプリのダウンロードに寛容ですか?

この問いかけは、誰が聞いても、ちょっと意図不明だろう。筆者は「ちなみに」と最初につけて、余談めいた形で何気に聞いたりする。

これは、DXに造詣が深いジャパン・マネジメント・コンサルタンシー・グループ合同会社代表の大野隆司氏とDXの実態について議論したときに思いついた。DXの課題について語る彼の口から出てきた言葉が、あまりにも意外で、それでいて核心をついていた。顧客との会話の中で、そのような議論に誘導することを目的に、問いかけ形式にしてみた。

DXの本には、DXも「CEO主導」とある。だが、本当にそうだろうか。もちろんCEO自らが旗振り役となり主導してくれれば助かる。でも、そうはならないと、いや、そうはできないと、個人的には思う。

かなり昔、ある研修で、インストラクターが「昔は黒電話(これも死語、いわゆる携帯でない電話)がない家があったんですよ」といったところ、 「え、全部の電話が携帯だったんですか!?」と尋ねられ驚いたそうだ。

生まれてきたときからデジタルが当たり前の人がいて、彼らが、社内のデジタル化を推進したり、デジタルで事業を創出したりする。そこで「黒電話が何かがわかるCEO」ができることは何か。それは、とにかくはデジタル世代がリクエストする「実験を認めてあげられるか」にかかっていると思う。

会社貸与のスマホにアプリを入れるつど、会社に申告し、「そのアプリ、何に使うんだ?」と聞かれているようでは、その会社でデジタル化は難しい。

DXは果たして手段なのか? 目的なのか?

たとえば「チャット」を導入したとしよう。これをソフトウェアの話だととらえればもうそれ以上話は進まないだろう。これは「新しいコミュニケーションのあり方の話だ」ととらえられなければ本質を見失ってしまうと思う。

同様に、「チャットを導入したら100%コミュニケーションがよくなるのか? その財務価値はいくらか?」といわれても答えようがない。それでも、「あるロジック」を入れて財務価値を無理矢理に算出し、上の人(意思決定者)にその導入を許可してもらう必要がある、という伝統的企業が多い。推進者からすれば「 『べつに、工場をどこかに新設したい』とかいっているわけではない!」と叫びたいものがあるだろう。このあたり、実験を認める寛容さがないと、DXは「できることだけをやる」ということになってしまい、 掛け声倒れになるのではないか。

少し誘導尋問っぽい問いかけだと思うが、DXがもたらす成果を考えるヒントになる質問がある。

DXは、目的ですか、手段ですか?

そう尋ねられれば、思わず「DXは目的ではなく手段にすぎません」と模範解答を答えてしまうような気がする。

DXに限らず、手段を目的化してしまう間違いは日常よくある。この手の話はITの世界がわかりやすい。たとえば、ERPを導入する場合、それが手段であるなら、目的は決算の早期化や経理業務のコスト削減などになるだろう。でも、導入そのものを目的とするならば、その手段は優れた方法論を探し、認定コンサルタントを雇うといった具合になる。

では、DXが目的でなく手段とすれば、本来の目的はなんなのだろう。でもそうなると、決まって急に話が抽象的になり、苦し紛れに「競争優位性の確保」みたいな古臭く、そして漠然とした話になるのではないだろうか。

生産性5倍、売上げ10倍を達成したペーパーレス化

DXと聞くと、筆者はその昔PwCコンサルティング(のちにIBMが買収し統合)に所属していた頃のペーパーレス化をどうしても連想してしまう。当時のCEOの倉重英樹氏(現シグマクシス・ホールディングス代表取締役会長)は、ペーパーレスを推進した。それは単なるペーパーレスを目指すというレベルではない。

たとえば、ホワイトカラーの社員1人が所持している紙を重ねたとしよう。どのくらいの高さになるか。そのときの調べでは平均8メートルくらいになるということだった。それをなんと20センチまで圧縮した。ちなみに20センチとは社員ひとりにあてがわれた収納スペース。引き出しひとつ分だった。

まだ若かった私はそれに反発した。「ペーパーレスは手段であり目的ではないです」と自信満々で反論すると、倉重氏は毅然とした態度で「ペーパーレスは目的だ」といわれた。

その迫力に飲まれた私は「はい、わかりました」と情けない返事を思わずしてしまった。倉重氏の話は続いた。「プリンター(印刷物)は情報の共有化を阻害するが、壁プリンター(プロジェクター)は情報の共有化を促進する」と。そうなればもう反論とかいうレベルではない。

結局、まさに究極のペーパーレスが完了した。するとどうだろうか。結論からいえば5年間で生産性が5倍に伸びた。売り上げは10倍、人員数は2倍になった。コンサルティング会社は設備をもたない。つまりこの結果は「人材の能力がついた」ということである。言い換えれば「組織にシナジーが生まれた」ということだろう。

勝者と敗者をわけるもの「チャレンジするかどうか」

くわしい話は割愛させていただくが、人が必要とする情報は、紙として引き出しにしまってあったり、記憶として頭の中に眠っていたりしていた。誰かから求められた場合、紙をそのまま渡すと、誤解や勘違いを生んでしまったり、その一部に機密情報が入っていたりする。だから、相手に合わせてサニタイズしたり、リファインさせたりするわけだが、それが面倒このうえない。だから、誰かに聞かれてもそれは「もってないということにする」という風潮がどうしてもあった。

ところがどうだろう。データが電子化され「簡単に情報を加工して渡せる」ようになった瞬間に、すさまじい勢いで情報交換が発生し始めた。情報交換が始まると、「情報をもらえない人間」と「情報が集まる人間」が出てきて、両者の業績の差がみるみる広がっていく。「情報が集まる人間は、自分でも情報を提供する人間」だと感覚的にわかってくるにつれ、ナレッジポイント(情報を出す人間)に人気が集まった。次第に組織のシナジーが生まれてきた、というよりも雰囲気、もっといえば文化までもが変わってきた。

個人的には、それ以来、やれ目的だの手段だの、うるさいことはいわないことにした。特にDXについては、目的か手段かを議論し始めると進めないと思う。デジタル化を進めれば、そこにデータが生まれ、データが情報に変わり、その延長線上で今までと違う発想が生まれやすくなってくる。

逆にいえば、やってみなければ、どのような成果がどのように出てくるかを明確に把握できない。いわば実験である。これを躊躇するのかチャレンジするのか、そこで勝者と敗者が生まれてくるような気がする。すでに成功しているGAFAの例で正当化しても説得力がないが、彼らのもっている不思議な魅力や文化はこんなところにある気がする。