インターネットが「文化資本の格差」拡大させる訳

GAFAの過剰な富の収奪

ビッグテックには、過剰に富を集めてしまっているという問題があります。

GAFAは従業員がとても少ない企業です。アップルは、大半がアップルストアの店員ですから、高い収入を得ているのはごく一部の人だけです。

特にアメリカは、富める1%とその他99%の格差がどんどん開いています。トマ・ピケティが『21世紀の資本』で言ったように、巨大企業から徴税して分配しなければ、格差はなくなりません。

しかし、彼らはタックスヘイブンに逃げてしまい、きちんと税金を納めていません。日本では、アマゾンが消費税を納めていなかったことが問題視されましたが、そもそもGAFAは、ヨーロッパでほとんど税金を逃れていました。

『GAFA next stage』では、業績がいいときには「成功者が多くを得るのはアメリカンドリームそのものだ」と言っているのに、業績が悪くなると、一変して社会主義的救済を求めるのはどういうことだという痛烈な批判が展開されています。

リーマンショックでも今回のコロナでも、大企業の救済が行われています。もちろん国家としても大企業を潰すわけにいかないというところはありますが、民意は納得できませんよね。

金銭的な格差だけでなく、メリトクラシー(能力のある人々による支配)という問題が指摘されています。

成功者は、それが自分の能力だと過信してしまいますが、現実には能力だけでなく、運や育ちの良さから、文化的・教育的な環境が左右されているわけです。でも、そこは忘れられています。マイケル・サンデルが『実力も運のうち』で述べたとおりです。

日本でも、国立大学の初年度の費用は、入学金と学費をあわせて100万円近くになります。これ以上格差が広がると、社会の活力がなくなっていくのは明らかです。

アメリカ社会は、流動性が極めて落ちています。実力主義が極度にまで達すると、大学入試でも単に学力が高いだけでなく、高校時代にボランティアをやっていたというような、「人間力」などの基準を求められることになります。

このような課外活動は、アルバイトで学費を稼いでいるような学生には難しい。そうなると、豊かな家の子どもでなければいい大学に行くのはきわめて困難になってします。

なにより、文化的素養がないと、貧困から抜け出せなくなります。貧困とは文化的貧困です。人材流動性を高めるためには、あらゆる人が一定の水準の教育を受けられるようにしなければなりませんが、日本もアメリカもそうはなっていません。

インターネットの「平等」が格差を生む

途上国には、学ぶ意欲はあるが、お金やPCがないという子どもがたくさんいます。一方、日本は、学ぶ意欲さえあれば、奨学金などが準備されています。

しかし、問題は、学ぶ意欲のない子どもです。アフリカにも、意欲がない子どもはたくさんいて、麻薬の密売人などになってしまうケースもあります。日本でも貧困から抜け出せない若者の多くは、学ぶ意欲がありません。

ですから、問題は「学ぶ意欲はあるが貧しくて学べない優秀な若者をどうするか」ではなく、「文化的貧困のために、学ぶ意欲のない若者が大勢いる現状をどうするか」ということになります。

単にEラーニングなど、インターネットで道を開くだけでは解決にはなりません。インターネットは自分で情報を取りに行かなければならない世界ですから、結局は、リテラシーの高い人でなければいい情報を得られません。

日本は、識字率は100%ですが、読解力のない人が多いとわかっています。誰もが読めるはずの国語の質問を、実は、中高生の3割が読めていないのです。そういう子どもたちに、Eラーニングで大学を目指そうと言っても難しい話です。

また、いろいろな援助や給付金制度がありますが、当事者がそれを知らないということも少なくありません。身の回りには、パチンコやゲームに没頭する人ばかりで、そういう情報を教えてくれる人がおらず、役所に出向くという発想もない――文化的に貧困であるというのは、そういうことなのです。

さらに、インターネットでは、人間関係の格差も生まれます。SNSで誰をフォローしているかによって違いが出て、なかには陰謀論に染まってしまう人もいます。

インターネットは平等ですが、平等であるがゆえに、たちまち格差化する。これは人間社会の宿命でもありますね。それをテクノロジーで乗り越えられるのかは、まだわかりません。

GAFAの存在と同じで、今後はテックを利用できる人とできない人で、格差はどんどん広がるでしょう。

最近は、15歳ぐらいでデビューするシンガーが増えています。かつては下積み時代が必要でしたが、今は、自宅で自分で録音して、ユーチューブに公開できます。優秀な人はあっという間に開花して、どんどん優秀になってゆく。自由であるからこそ、本質的な格差が見えてきたと言えるでしょう。

「望遠鏡的博愛」だけでは解決しない

ここで本書に1つ異論があります。著者のギャロウェイ氏は、動画サービスの企業のうち、ユーチューブは、プライバシーのデータを集めているからよくないという意味で「赤の動画サイト」、一方で、お金を払った人にサービスを提供するネットフリックスは「青の動画サイト」と分けています。

しかし、貧困層から見れば、広告がついていようが、データを収集されていようが、ネットフリックスに月額料金を支払うより、ユーチューブで無料で見られるほうがいいわけで、そのほうが民主的だと言えるのです。

もちろん、常に自由を愛している人にとっては、「プライバシーデータを集めるなんてけしからん」ということになります。しかし、たとえ企業に誘導されていても、それで文化的生活が維持できるならいいという考えもありえます。

明日の食事にも苦労しているシングルマザーが、せめて子どもに、ユーチューブで好きな動画を見せたいという場合はどうでしょう。そう考えると、本書を書くほどのギャロウェイ氏であっても、まだまだ貧困層への眼差しが足りないように僕は感じます。

格差と言っても、アメリカと日本は違います。日本には、アメリカほどの金持ちはいません。中間層はまだいますが、アンダークラスと言われる層が、急激に落ちていっているというイメージですね。

アンダークラスとは、もともと中間層の下のほうにいた人たちで、シングルマザーなど、非正規になって年収200万円以下になった人々です。生産年齢人口の3割ぐらいいますが、あまり可視化されていません。

昭和の頃は、抑圧があって息苦しい社会でしたが、黙々と働いていれば生活が安定する時代でした。工場の隅で黙々とガラスを磨くなどの単純労働をしている人の姿もありました。地味に生活していれば、コミュニケーション能力がなくても、家を建てられたわけです。

でも今は、みんなが高度な仕事を求められるようになり、どうしてもこぼれ落ちる人がいます。こぼれ落ちると結婚もできず、家も持てません。コミュニケーション能力が低い人は、どう食べていけばいいのかわからないですよね。

本来は、そういうところをテクノロジーで救うことが期待されます。しかし、得てして「地球温暖化」など大きな話になってしまい、ややもすると「それを言っていればカッコいい」という、金持ちの道楽と化すわけです。

イギリスの小説家チャールズ・ディケンズは、「望遠鏡的博愛」という言葉を残しています。近くの問題に目をつぶり、遠くの対象を救おうとする態度のことです。

それ自体が悪いとは言いませんが、「SDGs」と言うなら、日本国内に起きている目の前の貧困を見ないでどうするのかと思いますね。