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日本人が長く見過ごしてきた経済成長の「犠牲者」

新型コロナウイルスの蔓延は、「ケア」の問題をクローズアップさせることになった。病院などで働くケアワーカーや、家庭内での家事や育児の担い手に、大きな負担がかかっていることが明らかになったからだ。こうした時代背景もあってか、ケアは今、最もホットな話題の1つである。そして、ここ数年特に議論が活発な、資本主義が抱える問題とも密接に絡んでいる。

それは、ケアの担い手が、女性に集中してきたことと関係がある。その問題を、資本主義経済との関係からわかりやすい言葉で解説したのが、ジャーナリストであるカトリーン・マルサル氏による『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』だ。

同書は2021年11月30日付で日本語版が出たが、著者の出身国、スウェーデンでの刊行は2012年。世界20カ国で翻訳され、イギリスで刊行された2015年には、BBCが選ぶ「今年の女性100人」、ガーディアン紙「ブック・オブ・ザ・イヤー」に選ばれ大きな話題を呼んだ。現在の社会のいったい何が問題で、私たちはこれからどうすればよいのか、現在イギリスに住むマルサル氏にメールインタビューで聞いた。

ケアは経済全体にとって驚くべき価値がある

マルサル氏曰(いわ)く、「国連の調査によると、女性は1日平均4.1時間を無報酬の家事に費やしていますが、男性は平均1.7時間です。ヘルスケアに対する女性の無給の貢献は世界全体で1.5兆ドルと推定されますが、これは世界のGDPの2.35%にも相当するのです。家事やケアは、経済全体にとって驚くべき価値があります」。

日本では5年ごとに「NHK国民生活時間調査」が実施され、家事時間の平均を割り出している。2020年の平日の家事時間は女性が4時間34分、男性が1時間9分と、世界平均より若干女性の負担が大きい。

コロナ禍では、イギリスでも女性たちの負担が増していた。マルサル氏は「学校が閉鎖されたことで、多くの人がフルタイムで子どもの世話をしながら自宅でフルタイムの仕事をしなければならなくなり、いかに家庭での無給のケアワークが、経済のベースとなっているかが明らかになりました。問題は、なぜこのケアワークが経済的に評価されないかです。これはパンデミックの後に行われるべき、重要な議論の1つだと思います」と指摘する。

同氏は著書で、「経済学が語る市場というものは、つねにもう1つの、あまり語られない経済の上に成り立ってきた」と書いている。

「ケアがなければ子どもは育たないし、病人は回復しない。ケアがなければアダム・スミスは仕事ができないし、高齢者は生きられない。他者からケアされることを通じて、私たちは助け合いや共感を学び、人を尊重し思いやる気持ちを育んでいく。こうした能力は生きるのに欠かせないスキルだ。経済学は愛を節約しようとした。愛は社会から隔離され、思いやりや共感やケアは分析対象から外された。そんなものは社会の富と関係ないからだ」と問題点を記す。

愛とケアを無視した経済システムの始まりは、「経済学の父」と呼ばれるアダム・スミスだとマルサル氏は指摘する。スミスは生涯独身を貫いたが、人生のほとんどを母親のケアを受けながら研究に没頭し、受けたケアを計算に入れずに経済学の基礎を作った。

それは彼にとって、母親が自分の世話をすることは当たり前であって、経済とは無縁の愛の証と受け取っていたからだろう。その後の社会も、ケアのコストを考慮に入れずにきた。無視され続けたケアと愛情はどうなったのか。

男性の幸福度は1970年以降上がってきた

マルサル氏は先進国の女性の幸福度が、1970年代以降徐々に低下してきた一方、男性の幸福度が上がっている、という2009年の研究を引き、「先進国全体で見れば、女性は男性より強いストレスにさらされ、時間に追われている」と書いている。

ケアの度外視は、人々を不幸にしている。共働きのワーキングマザーは、家事・育児と仕事の両立に必死で、家庭でのケアが行き届かない自分を責めがちだ。家事・育児をあまりシェアしようとしない夫と、関係が悪くなる妻もいる。

保護者に余裕がないと、子どもたちも寂しい思いをする。シングルマザーの貧困問題は日本でも深刻だ。親の介護のため失業する人もいる。そうした現役世代の経済的・時間的・精神的な余裕のなさは、当事者の力不足ではなく、ケアを除外した経済システムに原因があったのではないか。

刊行から9年、イギリスでの変化を尋ねたところ、「大きな潮流として変化があります。今でも女性が料理や掃除やケアを男性より80%も多く行っていますが、40年前に比べると、男性は週に5時間半も育児や家事に費やすようになっています」とマルサル氏。

40年前と言えば、オイルショック後で女性の社会進出が進み始めた頃である。イギリスをはじめヨーロッパでは、政治への女性の進出も進んだ。女性の社会的地位が向上するとともに、家庭内での家事・育児のシェアも進んだ。

一方、日本ではオイルショック後、形を変えながらも女性の労働力化はあくまで非正規化を中心として進み、政治分野への進出はほとんどできていない。男性との家事・育児のシェアも遅々として進まない。NHK国民生活時間調査によると1980年、女性の平日の家事時間は4時間28分、男性は26分だった。男性の家事時間は40年間で増減をくり返し、伸びはせいぜい5年で数分ずつである。

男性がケアを引き受ける未来は来るか

希望の兆しはコロナ禍で見えた。コロナ禍で女性の負担は急増したが、男性も一部とはいえ前よりケアと家事を引き受けたからである。男性の家事時間は、2020年には2015年より平日で15分と大きく伸びている。いつか、男性が女性と同じようにケアを引き受ける未来は描けるのだろうか?

マルサル氏は、「男性と女性が同じように家事や育児に責任を持つことは、可能だと思います。本を書いた9年前、私には家族がいなかったのですが、今では結婚して3人の子どもがいます。ですから、この種の仕事がいかに貴重であるか、そしていかに大変なのかを一層実感しています。私の夫は専業主夫なので、家事や子どもの世話の重要な役割のほとんどを担っています」と述べる。

問題は、フルタイムで働く女性には家事・育児の負担が大きくかかりがちなのに、フルタイムで働く男性の家事・育児の負担はとても小さいことだ。NHK国民生活時間調査で2020年の男性全体の平日の家事時間は1時間9分と女性の約4分の1だが、仕事を持つ場合は6~8時間と比較的仕事時間が短い男性ですら、38分と大きく低下する。家事時間を引き上げているのは、主夫やリタイヤ男性なのではないだろうか。

家庭内での負担を減らすケアワークについては、働き手不足を招く賃金水準の低さが問題になっている。マルサル氏は「これは政治的な選択です。賃金が低すぎると、経済全体にとって重要な仕事をする労働者が不足する。このことを経済全体の問題と認識すれば、何をすべきかは明らかで、あとは、それを実行する政治的意志があるかどうかです」と述べる。

そして、家事やケアを採り入れた経済システムの構築は可能であるだけでなく、必要だとマルサル氏は言う。

「どんな社会でも、人を大切にするシステムを何らかの形で作らなければ、経済も何もかもうまくいきません。現在は、女性がほとんどの家事や介護を無料もしくは低賃金で行うことが期待されています。しかし、出生率の低下や女性が仕事から離れざるをえなくなっている実態からわかるにように、このシステムは明らかに機能しなくなっています。私たちは、新たな解決策を協議していく必要があります。

介護を誰かの負担にするのではなく、社会に必要な構成要素にするためには、きちんと給料を払って大切にすること。そして、この種の仕事の価値を、経済統計に反映させることです」

イギリスや日本が戦後、高度経済成長を成し遂げられたのは、多くの女性たちが家庭に入り無償でケアを引き受けていたからでもある。しかし、オイルショックでその限界に達した。女性たちは外に出てお金を稼がなければならないし、かといってケアをなしにするわけにもいかない。男女とも、そうした時間を作れる働き方にしなければならない時代は、とうの昔に到来している。

こうした話から思い出すのは、ファンタジー作家のミヒャエル・エンデの名作『モモ』である。物語では、時間泥棒の組織が人々のゆとりを奪っていた。奪われたゆとりとは、人々が家庭や地域でお互いをケアする時間だった。現実を生きる私たちが時間泥棒を撲滅するには、どうすればいいのだろうか。

稼ごうとするとケアするゆとりを失う構造

現在の資本主義社会では、稼ごうと思えばケアをするゆとりを失う構造になっていないか。ケアを重視すれば低賃金もしくは無償で働かざるをえなくなる。もしかすると、金銭的なゆとりがなくなって心の余裕を失い家族のケアに気を配れなくなるかもしれない。

少子化も、家庭内の軋轢も、人々がケアする余裕を失っていることが原因かもしれない。もっと時間が欲しい、もっと温かい雰囲気の家庭や職場、地域が欲しい。そんなふうに感じている人は多いのではないだろうか。私たちに今必要なのは、「もっとケアして!」と女性たちに要求することではなく、自らがケアをする余裕である。

幸い、介護・保育の分野については、岸田首相が昨年12月13日の国会で、今年2月からの賃金引き上げを言明した。ケアワーカーの待遇が改善していく可能性が見えてきたのは、明るい兆しと言える。問題は家庭内のケアだ。

家庭でケアをするゆとりを人々が得るためには、残業など不必要に「会社にいること」を求める職場の慣行を止めることが必要だ。その慣行があったからこそ、男性たちは長年、心身ともに会社に捧げて家庭を顧みる余裕を失ってきた。

総合職女性もこの三十数年、そうした会社文化に引きずり込まれてきた。男性が会社の奴隷状態だったから女性たちがそのあおりで、家庭内で奴隷的な働き方を求められてきたのではないのか。そして働く男女が、プライベートの要素が少ない生活で疲弊してきたからこそ、平成の間中、経済の発展がはかばかしくなかったのではないのか。コロナ禍でこうした慣行を見直す動きが出ているが、より力強く推し進めるために具体策を考えなければいけない段階にある。