災害が多発する地球と「人新世」が未来に残す痕跡

災害が多発する現代の地球

私たちは、すでに多くの気候災害が起こっている時代に暮らしているようだ。

ここ数年を振り返ってみるなら、2018年には広域での豪雨が多くの被害をもたらし、岡山の真備町や広島県呉市では大規模な浸水があって、14府県で200名以上が亡くなった。

 

2019年には台風が日本各地を連続して襲い、河川の氾濫を引き起こし、新幹線が水没した。2020年にも前線の活発な活動で、熊本県球磨村や岐阜県下呂市で大きな被害があった。

そしてまだ記憶に新しい今年の夏も、日本では季節外れの前線の活動が活発で、熱海や九州の各地で土砂災害などが多発した。ここ数年で、「線状降水帯」という言葉もすっかり定着したようだ。

海外に目を向けてみても、ヨーロッパやアメリカでの森林火災はますます大規模化している。メキシコ湾のハリケーンや、ヨーロッパ中部での豪雨も例外的な事象と呼ばれるような規模になっている。

なぜこのようなことが毎年起こるようになったのだろう。

気象庁では2018年から、停滞する前線や広域の豪雨を温暖化現象と結びつける見解を公式に発表している。すでに地球の気候は、大きく変容してしまっているということだ。 

このような気象災害を、地球レベルの気候変動から検討するのは、すでに久しいし、世界の科学者たちはこれに真剣に取り組んできた。

いわゆる懐疑派と呼ばれる奇妙な一群の人々による、メディアやプロの宣伝業のレベルでの撹乱は、かなりの(逆)効果があったのだが、すでに菅政権でさえ、2020年10月には「2050年カーボンニュートラル宣言」を出しており、温室効果ガスの排出を実質ゼロにする脱炭素社会の実現という掛け声をかけ始めている。

ガソリン車を2030年代半ばには禁止するという「グリーン成長戦略」は、ビジネス界や科学者、テクノロジーに関わる多くの人々にインパクトをもたらしている。

では、このような時代をどのように考えたらいいのだろう。この時代は、すでに地質学的にも、新しい時代を迎えている、という提唱がされている。それが、「人新世」という概念の提唱である。このような時代に、いったい私たちはどうしたらいいのだろう。 

地質学的な「悠久の時代」を考える

前置きが長くなってしまったが、本書は1つの答えを与えてくれる、イギリス・エディンバラ大学の英文学の教授が書いた環境の本である。正確にいうなら、この著者は英文学と環境学の教授らしい。

英文学と環境学? そんな2つの異なる分野で、教授ポストを持つとはどういうことだろう。実はすでにこのことが、本書の特徴となっている。

エディンバラ大学で英文学の教授を務めている著者デイビッド・ファリアーが、自然と場所について書くコースを教えており、学生たちを伴って地質学的な「悠久の時代(ディープタイム)」を考えるための現地調査に出かけることから、本書は始められる。

そこでは古代人の足跡(フットプリント)化石を見ながら、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』やエリオットの『荒地』に思いをはせ、われわれの時代の「炭素の足跡(カーボンフットプリント)」について考える。

解説的につけ加えておくなら、このような「環境文学」という領域が英文学では主流の1つで、レイチェル・カーソンやメルヴィルなどがその古典であって、なかでもアメリカ文学では「ネイチャー・ライティング」というのは人気のある分野である。

日本でも石牟礼道子の『苦海浄土』は、環境文学としても高い評価を受けている。

人類はどのような「痕跡」を残すのか

このように、文学的なイマジネーションと環境学の交差するなかで研究と教育を行っている著者は、「非常に遠い未来に私たちがどう記憶されるのか」という着想に至ったようだ。

つまり、人類が残した痕跡(それは「未来の化石」とも呼ばれる)は何かを探ろうというのだ。過去を振り返る視線を現在に向けて、はるかな未来からこの現在が、「どのような痕跡(フットプリント)になるのだろう」と考えているのが本書である。

どういうことかというと、本書ではスコットランドの道路や橋、上海などの沿岸都市、ペットボトルやグレートバリアリーフなど世界各地に及ぶさまざまな場所を訪れ、それがどのような「痕跡」となるのかについて、想像を及ぼす。

いわばSF映画的に現在の風景を、早回しで「廃墟」にしてみる幻視を、世界のあちこちで試みているともいえる。過去の廃墟に見飽きた廃墟マニアが、未来からの視点で現在の光景を廃墟になったらどうなるかと考えたものともいえよう。

だがファリアーは単純な廃墟マニアではない。環境学の教授でもあるので、各地で研究者たちとの専門的な検討は怠らない。

実は困ったことに、何しろ英文学の教授であるので、文学的な教養が多すぎて、ついていけないところもある(その意味では訳者が訳註などを充実させていることで、読者は多く助けられる)。

残念ながら日本では、類似の例は考えにくい。あえていうなら、腕ききの科学ジャーナリストが、もしくは文学的素養のある環境学者が著した良質のルポルタージュのようなものである。

文学の教授が環境学の専門家への「ディープ・インタビュー」を行って、未来にも残るであろう「痕跡になるか」、それはその場合、どのようなものとなるかという考察を行っている貴重な本である。

多重災害の時代の「環境人文学」

災害は「忘れた頃にやってくる」。そして忘れやすい。だが現下のわれわれは、コロナという災害のただ中にいる。

激甚な暴力的介入による災害ではなく、不可視のウイルスによるもので、無症状や軽症などを含む、複雑で扱いにくい災害である。

この2年ほど、日本を襲っている気候災害は、いわゆる「二重災害」であると考えてもいいだろう。救援や復興には、コロナの蔓延が懸念され、阻害要因となっている。

コロナの原因は自然環境の撹乱に由来するものであるという見解もある。その意味で、「災害は1つではやってこない」のが21世紀的状況なのかもしれない。

人新世と呼ばれる大きな変容とそれに対する対応を考えるためには、すでに理系と文系とを分けてはいられないだろう。ビジネスの現場や、いわゆる文化系の人々の間でも、環境問題をどう考えるかについては、深い洞察が必要である。

本書は理系と文系の壁をあらかじめ取り払って、人新世という時代の感性を問うている作品である。

近年では文学だけではなく環境史や環境倫理などを含めて、「環境人文学」という領域が必要だともいわれている。そのためにも、専門領域を軽々と超えているこの書から学べることは多いだろう。

環境文学の感性が光るこの一書はまた、環境学に果敢に挑み、文学の言葉を豊かに使ってわれわれに重要なメッセージを伝えている、良質な科学コミュニケーションの書といってもいい。

本書は来るべき環境を考え、具体的なビジネス展開を構想するための「ディープ」な基盤を準備し、その「未来の痕跡」を考えるためにも、必読の一書である。