菅首相とメルケル首相の埋められない決定的な差

「説明不足」ではなく「ナラティブ不在」

いよいよ、東京オリンピック・パラリンピックが7月23日から始まる。いまさら言うまでもなく、国民世論の支持を(圧倒的なまでに)置き去りにして、だ。今年に入ってから、五輪をめぐる世の中の動きは文字どおり「右往左往」だった。

2月に組織委員会の森喜朗会長が女性蔑視発言で辞任し、後任には橋本聖子五輪担当相(当時)が就任。3月には海外からの観戦受け入れを断念し、チケット60万枚の払い戻しが決定した。そして記憶に新しい5月、「国民の命や健康を守り、安全安心の大会を実現することは可能」との菅義偉首相の発言に至った。

朝日新聞の世論調査(5月実施)では、実に83%が今年の開催に異を唱え、オンライン署名サイトの「Change.org」の五輪中止を求める署名は42万を突破した。それでも開催に向けて突き進む日本政府に対しては、実にさまざまな報道が連日なされたわけだが、その論調をあえて一言で表すとするなら、「説明不足」に尽きるだろう。

「首相説明不足に不満も(時事通信)」「リーダーの説明不足(文春オンライン)」「医療への影響、説明を(日本経済新聞)」――とにかく、「説明」が足りない、というわけだ。

しかし、事の本質は、「単に説明が足りているか足りていないか?」ではないと私は思う。そこには、人を巻き込む物語的なアプローチ――「ナラティブ」が圧倒的に欠落しているのだ。政府と国民の意識をこれほどまでに乖離させてしまったのは、「説明不足」ではなく、「ナラティブ不在」なのだ。

近年ビジネスの世界でも注目が集まるナラティブは、「物語的な共創構造」と定義できる。現代社会におけるナラティブの役割は、多くのステークホルダーを魅了し、巻き込み、共体験を生み、行動を促すことだ。

「なぜ、それをやるのか?」

ナラティブを生み出す最も重要な要素――それは「パーパス(大義・存在意義)」だ。

東京へのオリンピック誘致が決まったとき、パーパスに最も近かったのは東日本大震災からの「復興五輪」というコンセプトだったはずだ。しかし、時が経つにつれてこのパーパスは希薄化し、そこに世界規模のコロナ禍が起こった。政府は2020年の3月に開催の延期を決定したが、新たな五輪のパーパスを打ち出すべきだったのは、本来、この直後しかなかっただろう。

2020年9月の国連総会での演説で、菅首相は「来年の夏、人類が疫病に打ち勝った証しとして、東京オリンピック・パラリンピック競技大会を開催する決意です」と述べたが、「疫病に打ち勝った」という状況にはなっておらず、「疫病に打ち勝つ」がパーパスにもナラティブにもなっていない。

パーパスは、「なぜ、それをやるのか?」への答えでもある。菅首相の強調する「安全安心」は、あくまで(やる前提の)「手段」の話であって、「なぜ、やるのか?」への答えにはなりえない。

もともと、2020年の東京オリンピック・パラリンピックの大会ビジョンは、“スポーツには世界と未来を変える力がある。”だった。

1964年の東京大会は日本を大きく変えた。2020年の東京大会は、「すべての人が自己ベストを目指し(全員が自己ベスト)」「一人ひとりが互いを認め合い(多様性と調和)」「そして、未来につなげよう(未来への継承)」を3つの基本コンセプトとする、とされている。

これら3つの基本コンセプトも、「パーパス」「ナラティブ」として人々に伝わっているようには見えず、「安心安全」という「手段」の陰に隠れてしまったように見える。

例えば、世界的なアウトドア用品大手のパタゴニア。同社は自身も登山家であるイヴォン・シュイナードによって1965年に設立され、ペットボトルをリサイクル活用した衣類やグッズなどで成長してきた。2017年、当時のトランプ政権が、ユタ州の国定記念物指定保護地域の大幅縮小を決めたとき、同社は「トランプ大統領を訴える」と発表した。

大統領選を控えた2020年には、「気候変動否定論者を落選させよう」というメッセージを発信。パタゴニアが展開する、「大統領が自然保護区を盗むことを阻止する」というナラティブは、消費者、環境保護団体、さらにはアウトドア業界の競合他社までを巻き込み大きな共感を生んだ。

パタゴニアがここまでのナラティブを生み出せるのも、同社には明確かつ強力なパーパスがあるからだ。「私たちは、故郷である地球を救うためにビジネスを営む」――同社のウェブサイトには、こう掲げられている。明確で独自性のあるパーパスが共感を呼び、共創構造をつくりだす。今回のオリンピックには、このパーパスにあたるものが見当たらない。

ナラティブ不在だった「会場での酒類提供」

パーパスを起点とするナラティブは、人々を同じ方向に向かせ、価値を共有させる(企業が近年ナラティブに注目する理由のひとつでもある)。つまりナラティブが不在だと、不協和音も起こりやすくなる。

6月22日の会見でバッシングされた、会場での酒類提供をめぐる丸川珠代五輪相の記者会見がわかりやすい例だ。「大会の性質上、ステークホルダー(利害関係者)の存在がある」との発言は、スポンサーへの忖度と受け止められ、「最大のステークホルダーは国民のはずだ」などと批判された。この発言の是非はともあれ、そこにナラティブがあれば、少なくともこうした言動は最小限に抑えられるはずである。

多くの人を動かすことが求められる「政治」の世界において、ナラティブの重要性は高い。アドルフ・ヒトラーの「ナラティブ力」は、大恐慌の最中にもかかわらず支持率を5%から40%まで劇的に向上させたし、ドナルド・トランプ大統領は「機械が人間の仕事を奪う」というナラティブを巧みに展開して支持を集めた。そして、現在も続くコロナ禍では、世界各国の感染対策もさることながら、政治リーダーの「ナラティブ力」が試されている。

コロナ禍におけるナラティブ力が高かった政治リーダーとしてまず思い浮かぶのは、ドイツのアンゲラ・メルケル首相だ。新型コロナの感染拡大を受けて、各国の首脳は次々に国民に語りかけた。その中でも、ドイツ国民からはもちろん、世界でも賞賛されたのが、メルケル首相が2020年3月に行ったスピーチだ。メルケル首相は、国民にロックダウンの決断を伝えながら、「東西ドイツ統一以来、私たちがこれほど連帯すべき試練はなかった」と語りかけた。30年前の「ベルリンの壁崩壊」を国民に思い起こさせる。

メルケル首相自身が、自由のない東独で少女時代を過ごした身であり、メッセージには首相個人の物語も見え隠れする。国民誰しもが共有する物語に重ね合わせると、次はスーパーの店員への感謝を強調する。

「お礼を申し上げたいのは、ほとんど感謝されることのない皆さん― スーパーでレジ係をしている方、品出しをしている方です」。いわゆるエッセンシャルワーカーへの感謝はその後多くの政治リーダーが口にしたが、メルケル首相は早かった。ドイツは医療支援や財政対策でも評価されたが、このスピーチに代表されるナラティブ力は、国民を結束させるために大いに機能した。

「テディベアを飾る活動」に参加した女性首相

もう1人挙げるとするなら、ニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相だろう。ニュージーランドで最初の感染者が報告されたのは2020年2月28日。その後は急速に対策を強化し、3月下旬には警戒システムをレベル4――いわゆるロックダウンに引き上げた。

戸惑う国民を前に、アーダーン首相は自宅から普段着で動画をライブ配信した。2歳の娘の母親でもある首相は、さながら子どもを寝かしつけた後にリモート会議に参加するママ社員のよう。楽しみにしていた4月のイースターを前に気落ちする子どもたちのために、「イースターバニーはエッセンシャルワーカーだから、今年の活動は減るかもしれないけれどなくならないからね」と語りかけた。

ロックダウン中には、通りに面した窓際にテディベアを飾る活動に参加。外出制限の中、わずかに許された散歩の時間で、子どもたちの気晴らしになればと自ら始めたが、この動きは「クマさがし」として全国に拡大。3万カ所近くが専用のウェブサイトに掲載されるまでになった。まさに、困難に立ち向かう「共体験」を実現させたのである。

メルケル首相が骨太なナラティブを展開したとすれば、アーダーン首相はより若い感性、カジュアルなナラティブで国民を巻き込んだ。メルケル首相、アーダーン首相に共通するのは、「上から目線」ではなく寄り添うスタンスで、国民が自分ゴト化できる物語性をうまく取り入れていることだ。

ほかにも、コロナ対策にSNSやインフルエンサーを動員したフィンランドのサンナ・マリン首相、「今は怖がっていてもいいんだよ」とテレビを通じて子どもたちに語りかけたノルウェーのエルナ・ソルベルグ首相など、ナラティブ力を発揮した政治リーダーには女性が目立つ。さて、翻って、わが国日本はどうだったのだろうか。

2020年4月1日。安倍晋三前首相は、「全世帯に再利用可能な布マスクを配布する」と発表した。「アベノマスク」と揶揄されることになるこの政策は、新型コロナウイルス感染拡大により深刻化していたマスク不足に対応したものだが、その後、さまざまな波紋を呼んだ。

「優先順位の高い政策課題ではない」と野党は指摘し、470億円近い費用や、その調達先にも疑問の声があがった。5月中旬までの完了を目指していたマスク配布は遅れに遅れ、ようやく全戸配布が終わったのは6月も半ばになってから。使い捨てマスクの品薄も解消され始めていた頃だ。安倍前首相は政策の正当性を主張していたが、10月に発表された「新型コロナ対応・民間臨時調査会」の報告書では、「アベノマスクは失敗」という官邸スタッフの証言が報道された。

アベノマスクが本当に政策として失敗だったかどうかは、人によって判断の分かれるところかもしれない。しかし、そこに「ナラティブの要素」があったかと言えば、それはほぼ皆無だ。アベノマスクは一方的に国民に配布告知され、とにかく全戸配布を完了することだけを目的に遂行されたように見える。ナラティブ不在のマスク配布は、まるで「サンプリング」のようだ。

アベノマスクに限らず、歌手の星野源の「うちで踊ろう」に便乗した動画(通称「アベノコラボ」)も、多少なりともナラティブ的なアプローチを意識したのかもしれないが、残念ながらお寒い結果に終わった。

菅政権でナラティブ不足が悪化?

そもそも日本政府の動きは、海外の政治リーダーと比較してもナラティブ不足の感が否めない。そして、それは菅政権に移行して、悪化しているようにさえ見える。「説明が不足している」「スピーチが下手である」――これらは、日本の政治リーダーや企業リーダーに対して頻繁に向けられる評価だ。しかし、その本質は、「ナラティブ力の不足」なのである。いくら説明を尽くそうが、スピーチの工夫をしようが、そこにナラティブがなければ人は動かない。

1964年の東京五輪にはナラティブがあった。それは戦後日本の復興の物語だ。国民はもとより、企業やマスコミも含めたすべてのステークホルダーにとって、東京五輪に関わることはすなわち「復興のナラティブ」という共創的な物語への参画そのものだった。もとより言われていた「東日本大震災からの復興」というナラティブも存在感を失い、コロナ禍で混乱に混乱を重ねた2021年の東京オリンピック。オリンピックの理念は普遍的なものだろうが、日本政府の「ナラティブ不在」という弱みをあらためて顕在化させたことは間違いない。