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誤ったESGの議論は格差を拡大し成長を損なう

ESG経営あるいはESG投資といった議論が盛んになってきた。Eは環境、Sは社会、そしてGは企業統治だが資本主義下では株主ガバナンスといってよい。これらの観点を経営管理あるいは投資の軸に据えることで、企業は発展し、環境や社会全体、ほかのステークホルダー(顧客、従業員、取引先など)などにもよい影響を与えるはずとする議論である。

しかし、この議論、そもそも筋がおかしくないだろうか。EとSは多くの人が賛同する「目標」だが、Gは目標達成のための「手段」にすぎない。そのGをEやSと同格の目標であるかのように扱うのは、議論のすり替えでありただの政治的アジテーションではないか。浅い考えでGの強化を叫ぶことは、EやSをよくするどころか、かえって損なう要因になりかねない。

株主ガバナンス強化論はなぜ間違いなのか

そのことを、今や経済学の基本定理といえる「コースの定理」の考え方を用いて整理しよう。図にするとわかりやすいので次ページに掲載した。

横軸に企業の新しい可能性に対するチャレンジ度をとり、縦軸に企業のステークホルダーである株主と従業員に生じる変化に対する限界的な(単位当たりの)利益と損失をとることにする。

企業経営のチャレンジ度が上がることで株主に生じる限界的な利益を図示すると、それは一般的には右下がりの軌跡となる。なぜなら、企業が新たな機会に挑戦して得られる追加的なリターンは最初のうちこそ大きいが、その程度を上げていくうちに、持てる経営資源の限界に制約され徐々に低下するはずだからだ。

一方、チャレンジ度の増加が従業員にもたらす単位当たりの損失は右上がりの直線である。企業が新しいことに挑戦すると、従業員たちが蓄えていた業務に関する知識や経験は、新しい状況に応じて改めて作り直されなければならない。また、企業がチャレンジ度を上げるにしたがって倒産可能性も増加する。株主は分散投資によって倒産による損失をコントロールできるのに対し、従業員にはそれができないからだ。

この図を見ていくと、2014年に経済産業省の研究会の成果として公表された『伊藤レポート』に代表される、株主ガバナンス強化論の大きな問題点が明らかになる。

企業活動水準について見ると、企業がまったくリスクに挑戦しないXは確かに過小だが、株主利益が最大化されるYは従業員に生じる負担という点で明らかに過大である。では最適点はどこなのだろうか。それは、株主利益を示す右上がり直線と従業員損失を示す右下がり直線の交点Zである。

この図では、企業のステークホルダーたちに生じた利益や損失の大きさが、面積として表現されている。それをAからDまでの4つの三角形に分けて確認しておこう。まずAの部分、これは株主に生じた金銭的利益から、従業員に生じた社会的損失を差し引いたネットベースでの社会的サープラス(余剰)である。この部分を黄色に塗っておくことにする。

次はBとCだが、ここはマクロでみればゼロサムの部分だ。株主に生じた利益と従業員に生じた損失とが打ち消し合って、経済価値の移転、従業員から株主への移転だけが生じているだけの部分だからだ。

問題はDの部分だ。ここは、株主利益が存在しないのに社会的損失だけが生じていることを示す部分である。これを放置する国家や経済は衰え、やがては消滅の日を迎えるかもしれない。この部分、わかりやすくするために青で塗っておくことにしよう。

こう説明すれば、日本経済全体にとって中間点Zの合理性は明らかだろう。企業が水準Zを選択してくれれば、CとDの部分は関係者に意識はされても現実には存在しなくなるから、企業活動はネットベースではAの大きさに相当する富を作り出してくれることになる。では、どういう方法で企業決定をZに導いたらよいだろうか。

社会とって最適なZで合意することは可能だ

そこで想起するのが「コースの定理」である。コースの考えによれば、この図でZと表記した最適な企業活動水準は、当事者同士が交渉して合意し、その合意を遵守すれば実現可能である。最適水準Zが選ばれるかどうかは、企業経営の主導権を株主が握っているのか、従業員が持っているのかには関係なく、両者の交渉と合意により実現できるはずだというのである。どうしてそうなるのか。

まず、企業がどの活動水準を選ぶか、それを決める権限を株主あるいは株主の代理人である経営陣が持っているとしよう。そのとき経営陣は活動水準として当然のようにYを選ぶだろうか。彼らが賢く、かつ従業員から誠実さにおいて信頼されているとすれば、もっとよい方法がある。Yよりも自重した水準であるZを選び、Yを選んでほしくないと考える従業員たちに相応の見返りを求めるという戦略が存在するのだ。

<説明のため図を再掲>

ちなみに、ここで従業員に求める見返りの大きさはCの面積よりは大きく、CとDを合わせた面積よりも小さなものでなければならない。Cの面積よりは大きくないと株主に利益がないし、CとDの合計より大きくなると従業員の賛成を得られないからだ。

やや具体的なイメージで言えば、彼ら経営陣としては、従業員に対して、「企業活動レベルを水準Zまで自制自重するから、その代わり、会社に忠誠心を持って参加してくれ、賃金は少なめでも頑張ってくれ、自分の会社での役割を意識して切磋琢磨してくれ」などと説くわけだ。何の合意もなく株主ガバナンス論を振りかざして水準Yを選ぶのではなく、従業員との合意の上でZを選んだほうが、株主にとっても従業員にとっても好ましい状態になる。

これに気づけば、単純な株主ガバナンス強化論が見落としていることは明らかだろう。問答無用型の株主ガバナンスは、従業員たちと経営陣との交渉あるいは合意形成への努力を無意味化することにより、日本全体に大きな外部不経済をもたらしかねないのだ。

ところで、この水準Zは、企業の意思決定を従業員が完全に握っていて、株主は企業の株式を持つか売るかの自由しかないときでも、同様に実現しうる。

この場合は、株主から従業員にBよりは大きくAとBの合計よりは小さい価値移転が生じる。結果として株主に残るのはAの面積の一部でしかないものの、企業がまったく新しいことに挑戦しないで何も得られない状態よりは、株主にとって好ましい状況を作り出せる。従業員たちも何のチャレンジもせずに水準Xにとどまっているより大きな報酬が得られるはずだ。

同じZでも株主支配か従業員支配かで分配は変わる

しかし、ここで注意したいことがある。それは、企業活動水準として社会的最適点であるZを選ぶことに変わりはないのに、株主に支配されている場合と従業員に支配されている場合とでは、企業活動の成果の「分配」は大きく変わっているということである。

株主が企業を支配している場合には、株主に本来の帰属利益であるA+Bに加えてCとDの一部を合わせた大きさの従業員からの移転利益が生じる。従業員には本来の帰属損失Bに加えてCとDの一部を合わせた大きさの株主への移転損失が生じる。これに対し、従業員が企業を支配している場合には、従業員にAの一部の大きさの利益が生じて、株主にはAの残余部分に相当する利益しか生じないであろう。

つまり、企業経営が社会全体にとって最適な選択をするかどうかには関係なく、企業支配における株主の立場を強化することは、富める者をより富ませ、貧しいものをより貧しくさせる効果があるわけだ。

そして、これはGの強化により日本経済全体の高い成長を実現できるなどと口にする政治家たちの思考不足をあざ笑うものでもある。なぜなら、一般に富裕層の消費性向は低く貧困層の消費性向は高い。だから、貧富の格差拡大は公正あるいは社会正義の問題だけでなく、いわゆる総需要の伸び悩みをも通じて国民経済成長の足を引っ張るのである。株主ガバナンス論は、長期的には日本を貧しくしかねないのである。

そこまで考えれば、第2次大戦後の公職追放の結果として従業員出身取締役に支配されていたとされる日本企業についても見方が変わってくるだろう。アングロサクソン型経営が世界標準となる中で、従業員に軸足を置きすぎと批判されるようになった日本的経営こそが、あの「高度経済成長」の理由の一つだったかもしれないという気がしてくるからである。そして似たような話がありそうなのは日本だけではない。重要な意思決定には従業員代表の同意が必要だとする「共同決定法」という法律の下にあった旧西ドイツがそれだ。

日本の企業経営に活力が失われた理由も、冷戦終了後のドイツの企業から輝きが消えていった理由も、国際的資本移動自由化の下で株主優遇を競い合うというという意味での「底辺への競争」に呑み込まれ、結果として株主以外のステークホルダー、とりわけ従業員たちとの合意を重視しなくなったことに関係があるだろうと筆者は考えている。

環境や社会への影響を専門に見る取締役が必要

そうしたなか、もう2年近く前になる2019年8月に、筆者が衝撃を受けたニュースがあった。アメリカのトップ企業経営者たちが作るフォーラムであるビジネスラウンドテーブルが、これからの企業経営について、株主だけを重視するのではなく、従業員や地域住民などの広範なステークホルダーたちとの対話と合意を尊重すべきと提言したのである。

提言に関する日本メディアの伝え方には、これは大企業が格差拡大による批判を怖れたからだ、そこまでアメリカにおける分配の不平等は深刻なのだ、というニュアンスのものが多かった。しかし、コースの定理に沿って考えれば、この提言は株主利益のかさ上げにも使えることは明らかである。強力な株主主権の下で株主代表である経営陣が従業員その他のステークホルダーたちと交渉すれば、前掲の図のDの大部分は株主に帰属し、貧富の格差はさらに拡大する可能性だってありうるのだ。そのことを突いた論説が展開されることがなかったのは、わが国の知的貧困であると思う。

本当はどうすればよいのか。企業ガバナンスを改革して格差是正につなげる、本当にSを実現するためにGを変える。それにはどうすればよいのだろうか。旧西ドイツ流の「共同決定法」はもはや答えにならないと思う。いわゆる資本移動の自由化によって生まれた国家間での資本誘致競争、いわゆる底辺への競争のもとでは、一国だけがそんな法律を作っても無意味だからだ。

筆者が状況を改善するアイデアになりうると思っているのは、株式会社の経営陣ラインアップに、株主利益への奉仕ではなく、自由にEやSのために、社会の持続可能性のためだけに奉仕する役割を付託された取締役を設置する運動を始めることなのだ。それについては場を改めて語りたい。