すぐに「ググる人」が陥る思考力低下という盲点

考える力が低下する

「デジタルファーストの世界では、若い世代はマウスのクリックや指のスワイプだけであらゆる答えを得ようとするが、テクノロジーに問題解決を依存していると、自分の知識や知性に関わる認識に混乱が生じる。うぬぼれや判断ミスを招くことすらある」と、動画統合プラットフォーム、ニューローを創設したロニー・ザロムは言う。

情報がいたるところにあるということは、意見がいたるところにあるという意味でもある。

話題のトピックについて世間の反応を知りたければ、SNSを見て意見を集めればいい。何かの事件やトレンドの背景を知りたければ、ちょっとググれば分析が無限に出てくる。ただしそれを続けていると、推論――批判的思考と問題解決力と創造力を一度に使う思考法――は自動化されていく。

もちろん、それにも一定の価値はある。インターネットが普及する前は、他人の意見を手に入れる機会は限られていた。理想の世界では、ある話題についてできるだけ多くの視点を得られることが、自分の意見を形成するうえで重要だとされる。

でもあいにく、現実世界でそうなることはめったにない。むしろ僕らは、自分と波長が合う一握りの情報源を見つけると、その情報源に極端なほどの影響を受けて思考し、意思決定するようになる。

その過程で、批判的に考えたり効果的に結論を出したりするのに使う「筋肉」は萎縮していく。つまり、自分がすべき推論をテクノロジーにさせているのだ。そしてテクノロジーが推論を形成しているなら、その場合、問題解決能力の多くも放棄していることになる。

心理学者のジム・テイラーは、思考を次のように定義する。「経験や知識や洞察に基づいて内省し、推論し、結論を導き出す能力。私たちを人間にしたもので、私たちが意思疎通し、創造し、構築し、進歩し、文明を持つことを可能にしたもの」。そのうえで、「テクノロジーは子どもの考える力にさまざまな面で有益にも有害にもなりうるとする研究が増えている」と警鐘を鳴らしている。

カリフォルニア大学ロサンゼルス校の心理学特別教授、パトリシア・マークス・グリーンフィールドは、10年以上にわたってこの問題を研究してきた。

教育への影響を論じるなかで、グリーンフィールドはこう書いている。

「大学生が授業中にノートパソコンでインターネットを使った場合、学習にどのような影響が出るのか。それをコミュニケーション研究の授業(インターネットや図書館データベースで調べ物をするため、授業中のパソコンの使用がふだんから推奨されている)で調査した。学生の半数(無作為に選別)はパソコンを開けておくことが許され、残りの半数は閉じるように求められた。授業後に抜き打ちテストをすると、パソコンを閉じていた学生は、開いていた学生よりも授業の理解度が高かった」

インターネットがすでに考えたことを調べるのではなく、自分の頭を使って授業を聞いていたので、いざ推論するとなったときにより深く考えられたのだ。グリーンフィールドは別の調査も分析しており、画面下にテロップが表示されないニュース番組を見た大学生は、キャスターの話をよく覚えていたことを明らかにしている。

自分で考えることを放棄しはじめた人々

劇作家のリチャード・フォアマンは、人々が思考の多くをインターネットに依存することで、人間のあり方そのものに変化が生じている現実を危惧する。

「私は西洋文化の伝統の中で育った。

そこでは、高い教育を受けた聡明な個人の、複雑で密度の詰まった『大聖堂のような』構造が理想(私の理想)とされていた。1人ひとりが独自に構築した西洋の文化体系をまるごと自身の内側に抱える男、または女がそうだと。しかし今日、情報過多と『すぐに使える』技術に圧され、(私自身も含めた)すべての人々の中で、複雑な内なる密度が新たな類の自己進化に置き換わっていくのを目の当たりにしている」

10代になるころ、初めて親に頼らずに考えて自分の意見を言ったときのことを覚えているだろうか。それはとても解放的な経験だっただろう。生まれて初めて、心から自分自身になれたと感じたかもしれない。いったい何があなたに起きたのか。もちろん、あなたの批判的に考える力が発達して、推論を使って人生を歩めるようになったのだ。

だったらなぜ、この自分を解放してくれるスキルを端末に譲り渡そうとするのか。考えてみてほしい。だれかに考えを押しつけられたら、どんな気持ちがするか。家族か友人か同僚がやって来て、「考えるな、お前の意見はこれだ」と言ったら、なるべく早くその人から離れようとするだろう。

情報をくれるデジタル端末にすぐ手を伸ばすとき、僕らは本質的にそれと同じことを招いている。

生産性や心の平温を乱すSNS

デジタル環境がもたらす思考力の低下は、僕らが最も気合いを入れて挑むべき強敵だ。しかし注意したほうがいいデジタルな脅威はもう1つある。僕はそれを「デジタルうつ」と呼んでいる。他人のSNSの充実した投稿を見て劣等感を抱くときに現れる、行きすぎた比較文化の影響のことだ。

今の僕はSNSを楽しんでいる。アカデミーの生徒やポッドキャストの視聴者と楽しくやりとりし、家族や友人の日々の投稿も楽しく見ている。娯楽の種として、また教育やエンパワーメントにつながるものとしてありがたく使っている。

SNSを使うときは、生産性や心の平穏を乗っ取られないように、習慣からなんとなく使うのではなく、意識的に、調和の取れた方法で使うことをお勧めする。

われわれがデジタル環境から完全に離れて生活することは、現代社会では極めて困難だ。だがデジタルがもたらす思考力の低下や「デジタルうつ」を回避するためには、時にはそれらに依存せず、意図的に自分の頭を駆使することを心がけるべきだ。

たとえば今から、決断しなければならないことを1つ思い浮かべよう。そして、少し時間を取って、デジタル端末を使わずにその決断に取り組んでみてはどうだろう。