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「退屈な文章を書く人」「名文家」の決定的な差

 

最初の三行で、読者をのけぞらせる

「誰でも書ける」「すぐ書ける」「簡単に伝わる」とうたう文章セミナーや実用書が人気だ。しかし、果たして、そうした惹句は誠実なのか。

当記事は「ニューズウィーク日本版」(CCCメディアハウス)からの転載記事です。元記事はこちら

実際に、文章で何かを表現しようとしたことがある人は、すぐに気づくだろう。文章を書くということは、考えるということだ。その営みが簡単なわけはない。

自分のなかに、どうしても解決できない、しかし解決しないと前に進めない問いがある。その問いに答えようと試みるのが、究極的には〈書く〉ということの本質だ。
(302ページ)

これは、名文記者として知られる朝日新聞編集委員が上梓した新刊『三行で撃つ――〈善く、生きる〉ための文章塾』(CCCメディアハウス)の一節だ。

著者の近藤康太郎氏は30年以上にわたり、新聞、雑誌、書籍と、さまざまなメディアに休むことなく文章を書き続けてきた。現在は、百姓や猟師の顔も持ち、朝日新聞紙上で「アロハで猟師してみました」「多事奏論」といった看板コラムを担当する。さらには、社内外の若手の記者やライターに、ただで文章を教える場(私塾)も提供している。

プロを相手に、文章や表現について説明することで、自らが学ぶ。『三行で撃つ』には、教えることで言語化されていったテクニックを「隠し弾」なしに、惜しみなく書いた。

初心者猟師が1羽の鴨を撃とうとすると、25発もの弾を使う。それになぞらえた本書は、初心者から使える「"いい文章"を書くための文章技巧25発」で構成される。

書き出しの三行、起承転結、一人称、文体、禁則事項ほか、1冊読めば、基本的な文章技術をすべて学ぶことができる。「書き出しの三行」とは、本や文章を読んでもらうには、最初の一文、長くても三行以内に、読者を驚かせ、のけぞらせなければならないということだ。それゆえの「三行で撃つ」である。

同時に、本書が数多の文章術の実用書と決定的に違うのは、読み進むほどに、言葉、文章、書くこと、つまりは、生きることの意味を考え抜かざるをえなくなる点だろう。

書くことが簡単なわけはない。しかし、考え抜き、自分の知らなかった自分を発見することは歓びである。だから書くことは、きっと愉しい。書きたく、なる。わたしに〈なる〉ために。

それが『三行で撃つ』に通底する思想である。では、考え抜くとは具体的に、どういうことか。

常套句を使うのが罪深い、2つの理由

例えば、著者が、文章の禁じ手の1つとして挙げるものに「常套句」がある。常套句を使うことが、考えるという行為の妨げになるからだ。

常套句とは、定型、クリシェ、決まり文句のことをいう。「抜けるような青い空」「燃えるような紅葉」といった表現だ。文章を普段からよく読む人ほど、かえって使ってしまいがちな表現だろう。こなれているようにさえ思える。しかし、これがいけないという。なぜか?

常套句を使うとなぜいけないのか。あたりまえですが、文章が常套的になるからです。ありきたりな表現になるからです。
しかし、それよりもよほど罪深いのは、常套句はものの見方を常套的にさせる。世界の切り取り方を、他人の頭に頼るようにすることなんです。
(53ページ)

すでにいろんな人によって使い古された表現である「抜けるように青い空」と書いた時点で、書き手はまともに空を観察していない、というのである。

他者の目で空を見て「こういうのを抜けるような青空と表現するんだろうな」と感じているだけなのではないか。他者の頭に自分を預けてしまっている。自分で考えることを放棄している。

空を見て、なにかを感じたという、いつもとは違うその気分、特別な心持ちを、自分の五感で観察し、自分だけの言葉で描き出そうとする。そうすることが、文章を書くことの最初であり、最後だと、著者は説く。

「言葉にできない美しさ」と、よく人はいいますが、それは言葉にできないのではない。考えていない。もっといえば、当の美しさを、ほんとうには感じてさえいないからなんです。
(56ページ)

ここまでで、考え抜くなんて面倒くさい。表現など自分には無用。最低限のコミュニケーションとして書く文章だけで十分だ、と思った人もいるだろう。果たしてそれでよいのだろうか。

表現者というのは、画家や小説家やミュージシャンだけではないんです。職人さんだろうと公務員だろうとサラリーマンだろうと、仕事とは、結句、表現ですよね。商品や技術やサービスを売る。自分のことを、表現する。労働の本質は、そこです。
(20ページ)

プロや、いい文章を書いてみたいと思っている人だけとは限らない。文章を書ける人は、ビジネスの現場でも有利である。

現代人は日常的にメールを書く。そのことに長い時間を費やす。メールの大半はなんらかの交渉のために書かれる文章だ。相手を口説くために書く。うまいメールを書ける人は出世する。

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『三行で撃つ』では、上手なメール(手紙)として、編集者の依頼状を例に説明している。編集者は、一流の作家やライターという文章の練達の士を文章で口説く。

依頼の際は相手を三手で詰める。「自分はあなたを知っている」→「自分はこういう者である」→「したがって自分にはあなたが必要だ(あなたにも、自分は有用だ)」。

ただし、ストレートに「あなたと仕事がしたい」と書くだけでは、意外性がない。相手の「心を撃とう」とするなら、依頼者は自分だけの五感で相手を観察し、自分だけの言葉で、相手さえ気づいていなかった評を添える。

つまり、常套句を廃して書く。「面白い」を面白いと書くのではなく、なにを面白く感じたのか、エピソードで熱意を語る。考え抜く。相手に響く文章とはそういうものだ。

世界は変わらないが、書けば自分の救いとなりうる

では、なぜ私たちは文章を書こうとするのだろう。著者は、後半に進むほど、その問いを深めていく。ここではその解をひとつだけ紹介する。

文章を書くとは、表現者になることだ。表現者とは、畢竟、おもしろい人のことだ。おもしろいことを書く人がライターだ。
(277ページ)

徒然草に「雪のおもしろう降りたりし朝(あした)」という一節がある。目の前が開け、周囲が明るくなることを古来、日本人は「おもしろい」と表現してきたという。

それを踏まえて著者はいう。「鎌倉時代の粗末な庵では、早朝の寒気など、震え上がるだけのものだったに違いない。雪の朝なんてだれも「おもしろい」と思っていやしない。吉田兼好が〈発見〉した、おもしろさなのだ」。

おもしろさを見つけられる人は強い。それは、世界がおもしろくないからだ。

だから、人類は発見する必要があった。歌や、踊りや、ものがたりが、〈表現〉が、この世に絶えたことは、人類創世以来、一度もない。
(280ページ)

『三行で撃つ』を読めば、「書くこと」が、自分の救いとなりうることがわかる。世界は変わらない。よくも悪くもなりはしない。それでも、人間の真実を見つめることはできる。

読み終える頃には、きっと、何か書いてみたくなっているはずだ。