「開拓性」遺伝子型の人とそうでない人がいる訳

何のためにサイエンスをやるのか

『ライフスパン』の著者デビッド・A・シンクレアさんは、生命科学の世界では非常に著名な研究者で、この1冊で、世界の老化研究がどこまで進んでいるのかということがよくわかります。

なかでも、未来について書かれた第3部「私たちはどこへ行くのか」は、興味深く読みました。寿命が延びれば地球上の人口が増えることになりますが、それがいいことなのかどうか、また、二酸化炭素の排出量や格差の問題など、老いなき世界にはどんな懸念があるのかということがとても丁寧に論じられています。

私自身、サイエンスというものは、人を幸せにするため、地球を守るためなど、よいことのために行われるべきだと考えていますし、単純に寿命が長くなる、老化しなくなるという技術的なことだけではなく、それによってどうなるのかということも議論するべきだと再認識しました。

私は、医師だった父の病院を見学した際に、「病気の人を治療することはすばらしいし、必要なことだけど、病気になる前に対処できないのかな」と強く思ったことがきっかけで、生命科学の分野で予防医学を研究するという道に進みました。

しかし、この世界は変化が速く、ヒトのゲノム解読はどんどん進んでいるものの、それを誰がどう社会に生かすのかという課題がありました。サイエンスの領域の知見を使って、社会に今ある課題を解決していきたいし、それによって研究もさらに進めていきたい。この両方をやることに価値があるだろうと思ったのです。

シンクレアさんも、研究だけではなく、その成果をビジネスとして社会に実装していくために精力的に活動されている方ですが、私の場合も、起業という手段が最適だと考え、ジーンクエストを立ち上げました。

今後もこういった流れは確実に進むでしょうし、すでに生命科学のイノベーションは世界で起こされつつある、そんな時代に突入していると思います。

異分野融合によって進化する世界

歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリさんが、AIの発展の次に生命科学が発展すると発言していますが、私は、AIの発展と生命科学の発展は同時でもあるというふうに考えています。というのも、今は異分野間の境目がなくなってきているのです。

例えば、論文1本当たりの著者の人数は年々増えています。1990年代前半までは、論文は1人で書くものでしたが、2020年になると平均6人で1本の論文を書くようになりました。以前は生物学、物理学と区別がありましたが、今は異分野融合が起きているからです。

私が取り組んでいる分野も、生命科学と情報科学が融合した「バイオインフォマティクス」と呼ばれるものですし、弊社のアドバイザーにはAI専門の人間もいます。今後もこのような異分野融合の流れは進むでしょう。

生命科学は、この10年で急速に発展したと言われますが、そもそもその理由は、物理測定機器とコンピューター技術の発展にあります。

ゲノム解析を含め、タンパク質やエピゲノムなど、身体の働きをデータとして計測できる機器が開発され、その後、膨大なビッグデータが蓄積されて、それを処理できるコンピューター技術が発展しました。だから研究が進んだわけです。異分野との融合によって、生命科学が進化したとも言えますね。

ゲノムというものは4つの塩基の配列でできています。これはデータ化できるデジタル情報ですから、ヒトのゲノムを解析することは、つまりはデータを蓄積するということになります。

現在、データの蓄積が世界中で進んでいます。データの意味づけ、つまり、この疾患の人はこの遺伝子を共通して持っているとか、このDNAが損傷しているとこの疾患になるといった法則性がわかるようになってきました。

ゲノムだけでなく、タンパク質などの蓄積データも、現在、加速度的に増えていて、解析コストも下がっていますし、今後さらに生命の法則性についての解明のスピードは上がるでしょう。老化の解明、老化に伴う疾患のメカニズムの解明も今まで以上のスピードで進むはずです。

ゲノム情報は個人情報か

ここで課題があります。『ライフスパン』にも書かれていますが、技術的にできることと、倫理的にやっていいことは別だということです。まずテクノロジーが登場して、そして、次にそれを使っていいのかどうかという議論が起きるのです。

ゲノムが解析できるようになったとき、それを個人情報としてどう扱うべきかという議論が始まりましたが、その議論の総和によって、倫理的な基盤を形成していくしかありません。とくに、個人情報は難しいテーマです。

ゲノム情報は、「究極の個人情報」と言われていますが、実際には、個人情報には該当しないと判断している国のほうが多い状況です。しかし、日本においては、個人情報として扱われます。

遺伝子情報が単体で存在しても、それを見ただけでは個人はわからない。ただ、名前や住所、本人を特定できるものとひもづけられた瞬間に、それは「究極の個人情報」となるわけです。それをどう扱うかは、皆さんがどう思うのかということにかかっています。

こういったスタンスは国によって違います。例えば、アメリカは、比較的個人主義のため、何をやっても個人の責任であるという感覚があります。ですから、ゲノム情報もネット上にアップしている人もいます。一方、ヨーロッパは、生命科学だけでなく、ネット上の情報全般について厳しい国が多いですね。そして、中国は、国家主導でデータを集めています。

技術と倫理は別であり、倫理には皆がどう思うかが大きいことを考えると、そのデータを使うことで何ができるのか、どんな未来がイメージできるのかを描くということが重要になります。

「ゲノム情報を使えば、人々が病気になることなく、健康なまま寿命をまっとうする世界が実現できるかもしれない」となると、自分のゲノム情報を提供する人も出てくるかもしれません。ただ、ディストピアを描けば、そのテクノロジーは使われなくなります。その点で、どのような未来を描けるのかを想像できるので『ライフスパン』のような本は意義がありますね。

GAFAをはじめとして、世界的に生命科学研究への投資が行われていますが、日本においては、根深い問題があります。まず日本は、生命科学だけでなく、科学論文の本数そのものが、先進国の中で唯一減り続けている国です。研究費の公的資金が少ないという問題もあり、博士人材も減っていますし、文部科学省によると2019年の大学院の博士課程学生数は、2003年の約半分まで減りました。

そして、日本ではダブルメジャー(複数専攻)ができません。アメリカでは、Ph.D兼MBAという人が多いのですが、日本には、ビジネスができて、なおかつサイエンスもわかるという人材が少ないのです。

ここを乗り越えていくためには、研究資金を増やすことなど長期的な方法はありますが、私はまず、異分野の多様な人材を融合させたチームを組むことだと思います。例えば、Ph.D兼MBAという人材が少なくても、ビジネスの人と研究者とがチームを組んで1つの課題に取り組むことはできます。

実際にそのような動きが起きてもいます。例えば、京都大学は、大学内の研究者の発表会で、ビジネスマンをマッチングして京大研究シーズの事業化を目指す取り組みを行っています。

また、武田薬品工業は、湘南の研究所をライフサイエンス系のベンチャーや研究室に開放して、イノベーションが起こるような街づくりを行っていて、弊社もそこで、ヘルスケアや保険、製薬などの会社とチームになって、周産期のうつ病への取り組みに参画しています。

多様な人材を集めて、1つの社会課題に取り組むというイベントは、現状の日本において、すぐにできることだと思います。

変化を怖がることは「種」として正しい

変化というと、変わった部分だけが注目されがちですが、ほとんどの変化は全体としてはグラデーションになっていて、一気にすべてが変わるということはありません。

「私は120年も生きたくない」と言う人はいますが、現在平均寿命が80歳台であるのも、1950年頃には50歳台だったところから徐々に延びてきたものです。今後も徐々に年月をかけて延びていくものであって、急に120歳にはなりませんから、恐れるほど変わることはありません。

松尾芭蕉が「不易流行」と言っていますが、変わらないものと、流行によって変わるもの、その両方が混ざり合うものだと捉えて、全体像を見るほうがいいでしょう。

それから、変化することに対して好意的な性格の人と、そうではない性格の人が、1つの集団の中に存在するということそのものが、実は全体の種としての生存の可能性を上げていると考えることもできます。

すでに論文で発表されていますが、新しいことに対する開拓性の遺伝子多型を持つ人と、そうでない人がいることがわかっています。全員が新しいことに飛びつく、あるいはその逆だったら、人類はすでに絶滅していますが、開拓したがる人と、そうでない人が多様に存在することによって、人間は種として生き延びてきました。人類全体でバランスをとっているわけですから、「変化が怖い」と感じることは、悪いことではないのです。

例えば、ストレスに強い遺伝子とそうでない遺伝子もあります。これも、強ければいいとも言い切れません。危機が迫ったときには、危機耐性があるほうがいいとも限らないからです。「津波が来るぞ」と聞いて、大丈夫だと考えて残る人もいれば、すぐに逃げる人もいます。そうして種全体の生存の可能性が保たれているのです。

私は、遺伝子解析の事業を始めるときに「遺伝子を調べるなんて、どうしてそんな危ないことをやるのか」というご批判を受け、つらく思っていました。でも、これも視点を変えれば、新しいことに対して批判する人は、私自身も含めた種の生存性を高めている存在だということになります。そう思えば、感謝しなければいけないなと考えが変わりましたし、多様性を認め合う必要があるなとますます思いましたね。

人間にはなぜ「老後」があるのか

長寿時代になれば、人生設計全体も変化して、今とは違う考え方になるだろうなとは思っています。「老後」という考え方もなくなって、働いたり、一度やめて勉強し直したり、また働いたりという人生になり、65歳まで働いて、その先は余生を送るというものではなくなるのではないでしょうか。

そもそも、「老後」がある生物はとても少ないのです。とくに、メスで閉経後の期間がある生物はまれなのですが、人間には、子どもを産んだ後の人生があります。それがなぜなのかは、まだ解明されていませんが、一説には、「老後」は子育てを手伝うため、集団で子育てするためにあると言われています。

人間の子どもは、非常に未発達なまま生まれてきます。馬や鹿は生後すぐに走りますが、人間は大人になり脳が発達するまでに15年から20年かかりますよね。なぜそんなにも非効率なのかというと、集団生活することによって、脳の発達に時間をかけられるからだというのです。

私はいま出産して5カ月経ちますが、育児を核家族でやるには限界がありますし、やはり社会全体で育てるほうがいいと感じます。『ライフスパン』には、孫の孫にも会える未来が描かれていますが、老いなき世界では、孫の孫を育てるコミュニティーが形成されたり、社会のグループの作り方も変わってゆくだろうと思っています。