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テクノロジーの進歩が問う「生きること」の意味

「どう生きるべきか」が問われる時代

『ライフスパン』には、信じがたいほど長寿の動物が紹介されています。

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例えば、ニシオンデンザメは150歳にならないと性的に成熟せず、510歳に達した個体がいる。そして、ホッキョククジラには、猟師に仕留められた時点で211歳だった個体がいたと。これには僕も驚きました。

ここには、秘密があるはずです。つまり、生物は種類によって長寿のものとそうでないものがあり、それは、単なる環境条件や栄養条件だけではなく、なんらかの遺伝子で決められた部分があるのではないか、と。著者のデビッド・シンクレア氏は、その秘密を突き止めることができれば、人間も長寿命を達成できるだろうと考えています。

ただ、そうなると、人生観が変わるということを考えなければなりません。

いまは、言うなれば「単線型」の人生です。65歳ぐらいで定年退職して世代交代し、その後は10年から20年生きられればいい。平均寿命は80歳ぐらいで、「そういうものだ」という生命観もある。

だから、その時に楽しく生きていけるだけのお金を、若いうちから蓄えておこうということになっています。ところが、寿命が3倍、5倍に延びると、この人生設計は完全に狂ってしまいますよね。

シンクレア氏は非常に面白い問題を提起しています。例えば、臓器提供の話です。自動運転技術が進んで交通事故がなくなれば、世の中全体を幸福にするように見えて、実は、その陰で臓器提供を待つ何百万人もの人が不幸になることでもある、と言うのです。

たしかに、臓器提供を待つということは、交通事故によって臓器に損傷なく死ぬ人を待つということにもなり、現実にそのような非道とも言えるサプライチェーンが存在しているわけです。

そこで人々を救うのは、例えば、iPS細胞のような新しい臓器を作るための医療技術でもあるでしょう。この1点においては、医療技術は人々に光を与えてくれるものだと言えます。しかし、そのような医療技術が集結すると、さらに大きな問題に突き当たる。

つまり、「人間はどう生きるべきか」という問いに入ってゆくわけです。まさにそれを考えなければならない時代なんだということを、われわれに認識させてくれるのが、この本だと思います。

サムシング・ニュー症候群

いま、最も変革が進んでいないのは、官僚と政治家です。いつまで経っても旧態依然たるままですからね。しかし、産業界やアカデミアの世界ではもう変革が起きています。

1970年代から1980年代、「サムシング・ニュー症候群」という現象が起き始めました。それ以前の時代は、若者にとって「新しいこと」は、上の世代にとって「知っていること」でしたから、物事は上から下に受け継がれる、つまり、若者は上の世代から話を聞くものだという感覚が一般的でした。

ところが、戦後に技術革命が起き、変化の速度が速まるにつれ、もはや上の世代の「知っていること」が、若者にとって「新しいこと」ではなくなってしまった。むしろ、「誰にとっても、新しいことは新しい」という世界に変わり、若者は「上の世代から学ぶことは何もない」と思うようになったのです。

この変化に、いち早く適応したのは欧米です。例えばアメリカは、1980年にシリコンバレーを作り、特許法や中小企業・ベンチャーを立ち上げる法律を立案し、「サムシング・ニュー症候群」を実質化しました。

ところが、日本の産業界はダメだった。厳しく社員教育をして、年功序列で終身雇用という制度を守り続け、それを1995年まで続けてきたわけです。

ようやく気がついたのは、バブルが崩壊してからです。以降、日本の産業界も欧米のやり方を取り入れるようにはなりました。日本企業が海外に進出して、現地の人々を採用しながら会社を作るようにもなり、新陳代謝はかなり進んでいると思います。アカデミアも同じです。2004年の国立大学法人化以降、いろんなことをやりながら、改革を積み上げてきました。

複線型の人生で「遊動民」になれ

もはや若者は、「年功序列型」「単線型」の人生を考えていません。そこで僕は、これからは「複線型」の人生になると提唱しています。会社で働きながら複数の仕事をやってもいい。拠点を複数持って、渡り歩いてもいい。僕はこれを「遊動民」と言っています。

つまり、狩猟採集時代と同じで、あえて所有物を持たず、現場調達型で渡り歩く。いまの言葉で言えば「シェア」ですね。いまの若者は、車も家も持たず、カーシェア、ルームシェアでいいと言っています。自分の所有物をひけらかし、高級マンションに住み、高級車に乗り、高級レストランで食事をするということが人間の価値になるという時代は終わったのです。

そして若者には、自分がどこへ行ったか、何をしたか、今どういうネットワークにいるかということを、インスタグラムやフェイスブックにアップして、みんなに承認してもらいたいという人生観が芽生えてもいます。

僕は、今回の新型コロナの影響で、とくにこのような新しい人生観を持つ若者が、東京一極集中をやめ、地方に流れることになれば、地方創生は一気に解決すると思っています。現に、テレワークが進んだことによって、1カ所に住んで職場と自宅を往復する人生なんてバカバカしいと考える人も出ています。こういったことがどんどん増えれば、社会が変わっていくでしょう。

遊動民には、コモンズ(遊牧民が自由に利用できる共有の放牧地)が重要です。日本においては、医療と教育がコモンズでしょう。つまり、公共のものとして、国がお金を出して無料化している。ほかに公共化できるものに、交通があります。都市部では70歳以上の高齢者は、公共交通機関の利用料が無料だったり割安になったりしていますが、それをもっと全世代に広げればいい。そうすれば、生きるために必要なお金はわずかになります。

そういう時代になれば、人々の人生観は変わるでしょう。移動にお金がかからず、時間的余裕ができれば、過疎化という問題もなくなるはずです。

シンクレア氏は、将来予測として、「人間は、時間的余裕ができれば人に優しくなる」と言っています。いまは、生きる時間が限られていて、自分ができることも限られている。その中で、なるべく自分の利益や要求に合うように選択を急ぎ、焦って生きている時代なのです。

だから、他人に目を向けることができない。しかし、自分の人生に余裕ができれば、他人のことを考えて幸福の世界が実現するだろう、と。僕もそのとおりだなと思っています。

イノベーティブな機運を上げる条件

時間の余裕ができて、刺激がなくなると、モチベーションが下がって生産性が落ちるのではないかという意見がありますが、僕はそこで重要なのが「環境づくり」だと考えています。

例えば、KPI(重要業績評価指標)を掲げ、皆がそのために邁進するなどというのは、実は生産性を下げることでしかありません。いくら「生産性を上げろ!」と言っても、オリジナルでイノベーティブなものを生み出すことは、お互いに刺激し合い、新しいものを作ろうという機運がそこになければ、実現しないものです。

その機運を上げる条件は、まず、自分と相手、自分と仲間たちは、違う人間なんだということを前提としています。自分も相手もまったく同じという前提に立ってしまったら、誰が考えても同じ結果にしかなりませんよね。それではつまらないし、話し合う必要もなくなります。

もっと多大な個性を発露して、話し合い、協働する中において、はじめてお互いが考えていなかったことが新しく生まれる。その瞬間がいちばん楽しく、ワクワクする時間なんですよ。そこを自覚して、この機運を高める環境を整えなくてはなりません。

それから、相手に軽々しく同調してはいけません。自分独自の考えをきちんと主張する習慣を身に付けなくてはなりません。そして、いい問いを作っていく。それができれば、未知の山が見えてきます。すると、登ってみたいという衝動、つまり、モチベーションを上げることにつながるのです。

僕の師匠は、富士山が大嫌いでした。「あれは孤峰だから、登ってしまったらもう後は何もない。だが、日本アルプスやヒマラヤは、登ればまた未踏峰が見えてくる。その情景が素晴らしいんだよ」と。

いま、日本も欧米も、医学がとても力強い。つまり、医学は未踏峰の探検の時代に入っているわけです。だから次々に新しい理論、新しい世界が見えてくるのです。

新しい世界で、お互いに違うアイデアを認め合っていくようになれば、年齢というものも関係なくなっていくでしょう。

例えば、京都大学にノーベル賞受賞者が多いのは、師弟関係がほとんどないからだと僕は考えています。学生は、教員を「先生」とは呼びません。

お互いが同等で、研究に邁進している同僚だと思っていますから、妙にへりくだったりはしないのです。教授だから偉いわけではなく、新しいことを考えた人だから偉いという世界でもあるわけです。現場には、そういう切磋琢磨がなくてはなりません。

ここが、いまの日本の政治には足りませんね。なにしろ、忖度ばかり。それでは新しいことは生み出せません。そもそも、定年制度があるのは日本ぐらいです。テニュア(欧米の大学において、条件を満たした教員に与えられる終身在職権)になれば、死ぬまで仕事をしていますよ。ある年齢で、一律に定年を迎えるなんてありえないことです。

『ライフスパン』の面白いところは、シンクレア氏と若い学生、若い研究者とのやりとりがふんだんに描かれていて、その中で次々と発見が起きることです。それをシンクレア氏自身が素直に書いているのがいいですね。

不老不死が「夢物語」でなくなる世界へ

本書を読むと、「そんなに長生きしたいとは思わないよ」という意見はどうしても出るでしょう。実際、老化をテーマに議論をして、「デザイナー・ベビーや遺伝子治療が始まった。次は、不老不死が実現するのではないでしょうか」と発言すると、「いや、そういうことは絶対にありません」という否定論が、医療関係者、哲学者、社会学者からも出ます。

もっと長生きできるという可能性が出てきたとしても、そんなに生きたいとは思わないはずだ、人間はむしろ死を選ぶものだという観念ですね。そこには複雑な事情もあるでしょう。例えば、健康寿命なら長生きしてもいいけれど、病院で管につながれて延命するだけなら生きていたくない。単に寿命が延びると言っても、一長一短ありますからね。ただの夢物語として不老不死を語っているうえでは、どんなことでも言えるとも思います。

ただ、そういう可能性があるということを、現実のものとして定義できるかどうかで、インパクトが違います。どうやら実現できるかもしれないということが見えてくれば、いま否定している人々も、ガラリと意見が変わるかもしれません。

もちろん『ライフスパン』も、まだまだ研究が必要だろうと感じる部分はあります。ただ、それでも、実績を残してきた医科学者が「老化は病気だ」「情報理論で解決できるはずだ」ということを言い切った。そこが、この本が時代を画しているところです。

本当に多種多様な問題を突き付けている1冊です。ぜひ、いろんな分野の人に読んでもらって、意見を聞きたいところです。