· 

スガノミクスでも絶対に「経済成長」は起きない

世の中はすでに菅政権に変わり、人々は盛んに「スガノミクス」を叫んでいる。だが、そもそもその前の「アベノミクス」(大胆な金融政策、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略の3本柱)は成功したのだろうか。

実は「アベノミクスは大成功だった」と評価する人たちも、「第3の矢」である成長戦略については「達成できなかった」とほぼ全員が認めている。だが、楽観的な彼らはスガノミクスの規制緩和に期待し、「これでイノベーション(技術革新)が起き、経済成長が起きる」と期待している。

絶対にない。また、経済成長は決して起きない。

なぜか。それは経済成長とは、バブルのことだったからである。「『3つのバブル』が崩壊する瞬間が近づいている」でも書いたが、世界のバブルはこれから崩壊する。それが2つのバブルの崩壊か、3つなのかはわからない。だが今後は経済成長(そして経済成長と人々が勘違いしていたもの)は絶対に起きないのである。

そもそも、経済成長は4つある。そのうち、3つが「間違った成長」であり、残りの1つが「真の成長」だ。

ではまず、3つの「間違った成長」から説明しよう。世間のほとんどの人は「経済成長とは景気がよい状態が続くことだ」と思っている。これが第1の間違った経済成長だ。

実際、GDPが増加すると、景気がよいということになるし、世間ではGDPの増加率を経済成長率と呼んでいる。

では、この考え方で、経済成長を実現しようとすると、どうなるか。ひたすら景気対策をすることになる。そうするとどうなるか。景気は過熱する。このとき「実力」を伴っていないので、景気はいずれ失速する。それを失速させないように、景気対策を続け、さらに加速させる。その結果、バブルになる。短期バブルが起こるのである。そして、短期バブルは必ず崩壊する。

このように、経済成長(と誤解されているもの)を起こすために景気対策を行うと、バブル崩壊となり、経済はダメージを受ける。結局、経済成長を実現するどころか、将来の経済成長を起こす力も壊すことになるのである。

もちろん、多くの経済学者たちは、こうした一連の景気対策が間違った政策であることを知っている。だから、アベノミクスの第1の矢=金融緩和と第2の矢=財政支出という景気対策をして、短期の時間稼ぎをして、その間に、第3の矢=成長戦略で、短期ではなく長期の経済成長を目指すことを期待した。

アベノミクスの成長戦略は、そもそも間違っていた

そうした人々の期待とは裏腹に、アベノミクスでの第3の矢は本気ではなく、失望となった。しかし、アベノミクスの第3の矢である成長戦略は、後述する2つ目の間違った経済成長を目指したものだった。だから、万が一成功したとしても、真の経済成長は実現できなかったはずだ。

成長戦略の柱のように見えた「働き方改革」「1億総活躍社会」といったこれらの政策の本質は何だったか。要は、市場経済への労働投入量を増やすことに多くが傾けられたのではないか。

これらは、量的な経済の拡大はもたらす。だが、それは真の経済成長とはならない。GDPは拡大するかもしれないが、それだけでは人々は幸せにならない。生活の質の改善も目指したかもしれないが、大半はいままで大切にしていた時間を、通勤地獄とオフィスでのストレスフルな時間に変えることによって、現金を得るに等しいからだ。

その得た給料(賃金)で、子供を託児所に預ける。帰りに居酒屋で憂さ晴らしをすれば、現金支出は増加し、結果としてGDPは増えるかもしれない。しかし、幸せにはならないのだ。

海外から投資を呼び込むことも同じで、資本投下量が増え、規模拡大は実現するが、やはり経済にはプラスにならない。日本の金融機関は預金の投資先がなく、そこへ新たな投資が来れば、資本がさらに溢れる。

資本が溢れるとどうなるか。もちろん、バブルになる。要は、海外から投資を呼び込むとは、株と不動産への買いを増やし、バブルを作るだけなのだ。短期景気対策のバブルと異なり、こちらは、そもそもバブルを作ろうとして作っているから、さらに罪深い。この、労働や資本の投入量を増やすことで目指す経済成長が、第2の間違った経済成長だ。

一方、海外からの投資の中には、質的に異なった資本投入も存在する。これには意味がある。2018年にノーベル経済学賞をとったポール・ローマー(スタンフォード大学教授)が1980年代に提唱した「新しい成長論」と呼ばれる理論においては、「知識が経済成長を生み出す」と考える。つまり「資本とともに知識が入ってくれば、その新しい知識は量ではない質的な経済成長、真の経済成長をもたらす」ということだ。それはいわばイノベーションの輸入であり、それが刺激となって新しいイノベーションが国内でも生まれるというものだ。

シュンペーターは正しくても「威を借る輩」は間違い

しかし、この「イノベーションが経済成長をもたらす」という考えも、実は間違いだ。これが第3の間違った経済成長である。

なぜか。イノベーションを提唱したのは、20世紀初頭から中盤にかけて大活躍した経済学者のヨーゼフ・シュンペーターということになっている。雑に言えば、彼は有名な「創造的破壊」によって、既存の大企業などの既得権益となっている産業構造を壊し、独占力を壊し、そこに企業家(起業家ではない)が参入し、「新結合」(すでにあるものの新しい組み合わせ)で新しい産業構造を作りこれが経済発展をもたらす、と主張した。現代では、これを勝手にイノベーションと呼んでおり、これが経済成長をもたらすことになっている。

確かにシュンペーターは、正しい。だがその威を借りて、イノベーションや起業家を礼賛している現代の人々は間違っている。なぜなら、現在起きているイノベーションのほとんどは、産業構造を破壊し、新しい価値を人々にもたらしているのではないからだ。いわば企業覇権の交代を目指し、新しい独占構造を作り上げ「利益」(経済学的には独占的利潤、余剰利潤、レント、正当な利潤を超えた利潤のこと)を貪ろうとしているのである。響きのよい言葉のように聞こえるが「プラットフォームビジネス」などはすべてそうだし、ITの覇者のほとんどはこれだ。

また、覇者でない「その他多くの企業」が行っていることも、真の経済成長はもたらさない。それは「差別化」の名の下にブランドを作り、ライバル企業の製品やサービスなどに打ち勝とうとしているだけだ。

消費者が顧客であればブランドだけでなくロイヤルティや共感などといった美辞麗句とともに、囲い込んでいるだけである。ライバルから顧客を奪い、消費者からはより高い価格で利益を得ようとしているだけである。だから、もしイノベーションで新しい製品が出てきても、消費者はより幸せになるとは限らないのである。

さらに消費者が選択するといっても、それは、19世紀の清(中国)を滅ぼした、英国の持ち込んだアヘンのごとく「消費中毒」に陥らせているだけかもしれない。スマホもゲームも、多くの人が感じるように、ただの中毒、依存症にすぎないかもしれない。

さらに言えば、競争は必ずしも成長を生み出さない。無駄な2重投資、3重投資をもたらすだけである。経済活動は増えるが、無駄が増えるだけである。例えば、携帯ビジネスは「3社独占」が問題なのではなく、新規参入してもほとんど意味はないし、3社ですら無駄な2重投資ばかりしている。

誤解を恐れずあえて言えば、品質が相対的によいNTTドコモが独占し、価格が独占的利潤を含まないような、ある程度安い水準に設定されればそれがベストなのである。菅改革がそういうものを目指しているのかどうかはわからないが、確実にいえることは、これは人々を幸せにするが、経済規模は縮小する。経済成長としては数字のうえではマイナスになるのである。

「真の経済成長」とはどこから生まれるのか

では、真の経済成長はどこから生まれるのか。これは3つある。

1つは、コストカットである。トヨタ自動車に代表される日本企業が大得意な分野である。同じものをひたすら効率を改善して、コストを減らして安く提供する。これは確実に人々を幸せにし、余ったお金で別のことができる。しかし、一時的には経済は縮小する。名目的な数字上の経済成長は生まれない。デフレ経済が生じると非難される。しかし、名目的には減少しても、実質的には真の成長がもたらされているのである。

2つ目は、改善である。これもトヨタを彷彿とさせるが、ほとんどの企業が実践していることだ。確実に消費者満足を高める、改善である。例えば、弁当についているしょうゆの袋がどこからでも楽に切れるようになったりすることだ。また、駅の切符を買う必要もなくなり、改札での混雑を大きく減らしたSuicaのような発明だ。

しかし、それで弁当屋もJRも目に見えて利益を拡大したわけではない。なぜなら、彼らは顧客満足度を高める改善をしただけで、顧客により高い価格を払わせようとしてはいないからである。これも企業利益も経済成長ももたらさないが、人々は幸せになり、日本社会は豊かになる。

1990年代末に、平成バブル崩壊で経済崩壊といわれた日本に来たアメリカの投資家は、日本が「焼け野原」か「貧民街の巣窟」にでもなっていると思ってやってきた者も少なくない。だが、あまりに豊かで人々が幸せであることに驚き「どこに経済危機があるんだ!」とつぶやいたのは有名なエピソードである。つまり、経済成長と人々の生活の豊かさは別なのである。

真の経済成長は「自給自足経済の進化」から

最後の3つ目は、私の主張であるが、「自給自足経済の進化」から生まれる。コロナショック後、バブルが最後に膨らみ崩壊した後に生まれる可能性のある、1つの理想的な社会や経済である。

世間の言葉で言えば、スローライフが近いかもしれない。だが、欧州の中世、いやそれよりもっと近いのは、日本の江戸時代、近世である。江戸時代、目に見えた経済成長はなかった。だが、人々の生活は豊かになった。

欧州の中世では、農業生産力は向上し、その余剰分は、領主や貴族、王が吸収してしまった。それでも経済には新しい、真の価値が生まれた。一方、江戸時代、町人は、生活を楽しむ術をあらゆる面で発達させた。歌舞伎も、多くの職人が生み出す工芸品も、多くは江戸時代に発達したものである。浮世絵は世界的に絶賛される芸術であるし、何よりも江戸は当時、世界でもっとも環境にやさしい社会だった。幕末に日本を訪れた欧米人が、日本の風景の美しさ、人々の表情の明るさに感動した話は、あまりに有名である。

しかし、このような経済の豊かさがGDPの増加で測られる経済成長として認識されるのは、明治維新後、市場経済における金銭取引が拡大してからだった。欧州もそうで、大航海時代が15世紀末に開幕し、流動化が起き、近代資本主義(あるいはバブルと呼んでもよい)が始まって、初めて経済成長が認識された。その結果、歴史家は誤って、中世を「暗黒の時代」と呼んでしまったのである。

近代資本主義の延長をひたすら続ける、あるいはその拡大を目指す限り、真の経済成長はやってこない。ましてや、景気拡大、労働人口や資本を増やすことで目指す経済成長戦略では、いかなる意味でも経済成長は起きないのである。