踏まれるほど強くなる「雑草」の凄すぎる生き様

「逆境は味方である」

この言葉に、なるほどと思われる方も多いことだろう。順風満帆なときには、誰しも気が緩む。人を育ててくれるのは、逆境のときなのだ。

あるいは、ポジティブシンキングという言葉を思い浮かべる方もいるかもしれない。逆境を悪いことと考えず、良いことと考える逆転の発想が大事なのだ。

しかし、である。雑草にとってのそれは、そんな精神論ではない。雑草の戦略は、もっと合理的なものなのである。

逆境を合理的に利用する

誰しも逆境は嫌である。順風満帆に平穏な日々を送りたい。しかし、安定した条件で勝利するのは競争に強い者である。恵まれた条件では、間違いなく強い者が勝つ。もし、弱者にチャンスがあるとすれば、それは不安定な状況であり、恵まれない状況である。

そうであるとすれば、弱者は逆境を恐れてはいけない。むしろ弱者は逆境を歓迎しなければならない。強者が力を出すことのできない逆境にこそ、弱者が勝利するチャンスがあるのである。

だからといって、誰よりも努力をするとか、歯を食いしばって頑張ればいいというものではない。人間の世界は、根性で何とかなるかも知れないが、雑草の暮らす自然界は、そんな根性論で乗り越えることができるほど、甘い世界ではないのだ。

逆境といっても、さまざまな種類がある。弱者である雑草にとって、「逆境を利用する」ことは基本的な戦略ではあるが、逆境であれば、何でもいいというわけではない。

踏まれるという逆境の場所では、踏まれることに強い雑草が生える。草刈りをされる場所では、草刈りに強い雑草が生える。草取りをされる場所では、草取りに強い雑草が、耕される場所では、耕されることに強い雑草が生える。

こうして、すべての雑草が、自分の得意な場所で勝負しているのである。

数ある雑草に降りかかる逆境の中でも「踏まれること」は、もっとも雑草らしい象徴的な出来事だろう。

踏まれる雑草は多いが、その代表格とも呼べるのが、オオバコである。
よく踏まれる道に生えるオオバコを漢字で表すと、「大葉子」である。その名のとおり、大きな葉が特徴的だ。

その葉は見た目にはとても柔らかい。しかし、柔らかいだけでは、踏まれたときに葉がちぎれてしまう。オオバコの葉を見ると、柔らかい葉の中に丈夫な筋がしっかりと通っている。そのため、オオバコの葉は踏みにじられても、なかなかちぎれないのだ。

柔らかいだけでは簡単にちぎれてしまう。柔らかさの中に固さがあるから、その柔らかな葉は丈夫なのである。

茎は逆に外側が固くなかなか切れないが、中はスポンジ状になっていて、よくしなる。やはり、固さと柔らかさを併せ持っているのである。

柔よく剛を制す 

「柔よく剛を制す」という言葉がある。これは、剛よりも柔が強いと解釈されがちだが、本当は違う。

実際には、「柔も剛もそれぞれの強さがあるので併せ持つことが大切である」という意味の言葉なのである。

固いだけでは、強い力がかかると耐えきれずに折れてしまう。柔らかいだけではちぎれてしまう。固さの中にしなやかな柔らかさを持ち、柔らかさの中にしっかりとした固さを持っている。それがオオバコの踏まれることに対する強さの秘密なのである。

これは「しなやかさ」という言葉で表すことができるだろう。踏まれることに対して求められるのは、外からの力を受け流す「しなやかさ」なのだ。

私は、オオバコのことを「踏まれるスペシャリスト」と呼んでいる。しかし、私がオオバコのことをスペシャリストであるとまで言うのは、単に踏まれることに強いからではない。オオバコは踏まれることを、巧みに利用しているのである。

オオバコは、道ばたやグラウンドなど、よく踏まれるところに生えている。まるで踏まれやすいところを好んでいるかのようだ。

じつは、オオバコの種子は、紙おむつに似た化学構造のゼリー状の物質を持っていて、雨が降って水に濡れると膨張してネバネバする性質がある。その粘着物質で人間の靴や、自動車のタイヤにくっついて運ばれていくのである。

オオバコの種子が持つ粘着物質は、もともと乾燥などから種子を保護するためのものであると考えられている。しかし結果的に、この粘着物質が機能して、オオバコは分布を広げていったのである。

舗装されていない道路では、どこまでも、轍(わだち)に沿ってオオバコが生えているのをよく見かける。オオバコは学名を「プランターゴ」と言う。これはラテン語で、「足の裏で運ぶ」という意味である。また、漢名では「車前草」と書く。これも道に沿ってどこまでも生えていることに由来している。道に沿ってたくさん生えているのは、人や車がオオバコの種子を運んでいるからなのだ。

こうなると、オオバコにとって踏まれることは、耐えることでも、克服すべきことでもない。踏まれることによって、分布を広げて成功するのだから、踏まれなければ困ってしまう。もはや、すべてのオオバコは、「踏んでほしい」と願っているはずだ。

こうして、踏まれなければ困るほどまでに、踏まれることを利用しているのである。まさに逆境をプラスに変えて成功しているのだ。

踏まれなければ成功できない

植物にとって「踏まれる」ということは、けっして良いことではない。
踏まれることなく、何の障害もなく、成長することができれば、存分に育つことができるし、踏まれることさえなければ、何のストレスもなく過ごすことができるだろう。

多くの植物にとって、踏まれることは、耐えるべきことであり、克服しなければならない障害である。

しかし、オオバコは踏まれることを嫌がるどころか耐えるどころか、その逆境を利用して成功した。

もし、オオバコが踏まれなかったとしたら、オオバコはどうなるのだろう。

オオバコは踏まれなければ、種子を散布することができない。いや、それだけではない。踏まれることがなければ、さまざまな雑草が、その土地に侵入してくる。オオバコは、踏まれることに対しては特別な強さを発揮するが、他の雑草との競争には、からきし弱い。誰も踏まない場所では、オオバコは他の植物に圧倒されて、やがては消え去ってしまう。

よく踏まれるような場所では、何しろ競争が起こりにくい。踏まれながら生きることに精一杯で、競争などしている余裕はないのだ。

光を求めて茎を伸ばしても、踏まれてしまうし、体を大きくして競争力を発揮しようとすれば、車に轢かれて倒されてしまう。そんな環境では、競争に強い植物や大きな雑草は生えることができない。

競争に弱かったから、競争の少ない踏まれる場所を選んだのか、踏まれる場所に適応していく中で競争力を失ったのか、そのどちらかはわからないが、おそらく両方の要因があるのだろう。

今やオオバコは踏まれなければ生きていけないほどまでに、踏まれることに適応した進化を遂げている。そして、「踏まれる場所」で圧倒的に優位な地位を築いているのである。

雑草たちの棲み分け

雑草は、どこにでも生えるイメージがあるかもしれないが、そうではない。

実際には、雑草も、自らの強みを活かした場所を選んで生えている。
もちろん、雑草は動くことができないから、自ら場所を選んでいるわけではない。実際には、たくさんの種があり、たくさんの芽生えがあり、その中から自らの強みを発揮できる場所に生えることのできた者だけが、雑草として成功していることになる。

つまり、自らの強みを活かした場所で生えているというのは、結果論である。しかし、自らの強みを活かした場所でなければ生き残れないという真実は明確だ。

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私たちは、戦略を選ぶことができる。戦う場所も選ぶことができる。そうであるとすれば、強みを活かした場所を選んで戦わなければならないのだろう。

たとえば、舗装されていない道路を見ると、道には踏まれることに強い雑草が生えている。中でもオオバコのような踏まれることを利用する雑草は、わざわざ車の轍のような、踏まれやすい場所を選んで生えている。

車の轍の間や、道路の脇の方の、少しだけ踏まれるような場所には、また別の種類の雑草が生えている。そして、道路の脇の草刈りが行われているような道ばたでは、また別の種類の雑草が生えている。

そして、道路の外の畑を見れば、耕されることに強い雑草が生えているし、草ぼうぼうの空き地のような場所では、雑草の中でも競争に強い大型の雑草が生えている。

隣り合った環境であっても、生えている雑草の種類は違うのだ。

雑草は、何気なく、どこにでも生えているわけではない。「道路」という空間の中であっても、それぞれの雑草が強みを発揮できる場所に生えているのである。