太陽が煌々と降り注ぐお盆の昼下がり、見知らぬ親子が自宅を訪ねてきました。
「突然すみません。生前、先生に大変お世話になったものです。お線香だけ上げさせてもらえませんでしょうか」
40代半ばの体格のいい男性は、70歳くらいの母親を連れて頭を下げます。
3年前に筆者が実家へ帰省中の出来事でした。筆者の母は生前養護教諭をしており、そのときの生徒さん親子だったのです。
「そうでしたか。わざわざありがとうございます。どうぞおあがりください」と仏壇の部屋へ通すと、その親子は下唇を軽く噛みながら仏壇に線香を立てた後に手を合わせ、いつまでも深く頭を下げていました。
中学の頃、手に負えないワルだった
突然の来客に慌ててお茶とお菓子の用意をし、「せっかくなので、お茶でもどうぞ」と促し、お話を伺うことにしました。
「先生には本当に感謝してもしきれない一生の恩があるんです。突然のことで本当にショックでどうしてもご挨拶に伺いたかったんです」
と語り始めるのは母親のほうでした。
「こいつ(隣にいる息子)が中学の頃、校内暴力、学級崩壊ととにかく学校が荒れていた時代で、こいつも私の手に負えないくらいのワルで、毎晩帰って来ないは、帰ってきたと思えば友達とうちでたむろしてタバコ吸って家の畳焦がすわ、シンナーは吸うわで、生徒指導からも毎日呼び出されては怒られて……。うちは母子家庭でとにかく稼がなきゃいけなかったので私は昼間はスーパーで、夜はスナックで働いていましてね。子どもには寂しい思いをさせてたので私のせいなんですが、自力で生きてく力をつけさせるしかなったんですよね」
今から三十数年前は、とにかく生徒が暴れる映画のような時代でした。教諭も生徒から暴行を受けて骨折したり、車を傷つけられたり、地域の中学校同士でけんかを売り買いは日常茶飯事。
筆者の通っていた中学校も全校生徒1000人以上のマンモス校だったので、一筋縄ではいかない生徒が多く、制服ではなく特攻服で登校する同級生や、わざと職員室の前でシンナーを吸っている生徒がいたり、夜中には国道を暴走族の爆音が駆け巡るというのは毎日のことでしたので、激動の当時を思い出しながら懐かしく思いました。
筆者の母もその激動の時代に、とくに地元で“荒れている“と評判の中学校へ勤務しており、その頃の生徒さんだったようです。
「僕ね、親にも随分迷惑かけたって今では反省することも多いんですがね、たぶんそれは先生がいたからなんすよ。先生さ、いきなりパツキンのクルクルパーマかけたの覚えてないっすか?」と息子さん。
あぁ~!っと昔の記憶が一気に蘇りました。堅い仕事をしていた父だけでなく、なにしろ田舎なので親戚一同おったまげた!といった感じでしたが、当の本人は気に入ってるような満足げな顔をしていたのを覚えています。
怒りの「パツキンパーマ」に救われた
「あれ、実は俺らのせいなんすよ。俺らって、本当に悪かったから、担任なんかはまず俺らと目を合わせたことねぇし、センコー全員俺らと関わらないようにって逃げ回ってる感じだったし、そもそも世の中の大人って全員敵だと思って生きてたんでね」と。
クラスで給食費がなくなる、誰かが泣いているなどネガティブなことがあると、真っ先に何の証拠もなく無条件に彼らが疑われ、頭ごなしに怒られるという日々の中で、大人に対しての不信感が募り募っていったのだそう。
「でね、ある日校長室に親と一緒に呼び出されて、“お前ら明日から学校来んな”って言われてね。そしたら、俺らより先生が校長にキレちゃって、俺ら正直ビビりましたよ(笑)」という息子さんの言葉に続いてその母親も続けます。
「先生ね、“どんな生徒でも学校に来る権利がある。それをましてや校長が奪うなんて何事だ!”ってキレちゃって、そしたら次の日にいきなりこいつらと同じパツキンのパーマですよ(笑)。ろくでもないこいつら連れて校長室に乗り込んで行ってね、“この子らと向き合おうともしないで容姿や育ちだけで学校に来るなと言うなら私も明日から来ない!”って啖呵切ってね。私のような親は本当に心が救われたんです。あれだけは一生忘れられない出来事でした」
聞くと、息子さんだけでなくこの母親も、母子家庭というだけで世間から偏見の目で見られていた時代に生きにくさを感じていたのだそうです。“まともな家庭じゃない“という自分自身への思い込みも強く、「どうせ何をやってもうまくいかない。幸せなんて自分には訪れない。一生世の中の“敵”と戦って生きていかなければいけない」そう感じていたそうです。
学校から呼び出されれば、「どうしたの?」という言葉ではなく、一方的に上から怒られるだけで、そのたびに自分たちは“ダメな人間だ”という思いが強くなるばかりだったそう。
そんな乾ききった心で何とか生きていた親子にとって、“学校関係者で味方がいる”と知ったことはとても大きな意味を持ったそうです。
その一件以来、ワルで評判の生徒たちは保健室登校をするようになり、日常で思うこと、傷ついたことなどを少しずつ口にするようになっていったと言います。
「思春期だったから何に対してイラついてんのか……というか全部のことにイライラしてたんだと思うんだけど、唯一先生だけは俺らのこと怖がってない大人でしたね。むしろ校長室の一件から先生の方が怖かったですよ(笑)」と。
保健室へ行けば、ほどよい距離で「今日はなんかあった?」とだけ聞き、「別に」とだけ答えれば、「あんた今ヒマだったらちょっとこれ手伝ってよ」と、さりげなく居場所をつくってくれていたと言います。中卒で仕事をすることを決めてからも何度か相談の連絡も取っていたとか。
「先生も昔随分苦労してきたって話を聞きました。こんな私のことも“立派じゃないですか”といつも応援してくれてね。本当に救われた思いなんです。生きていていいのかさえわからなくなることも多かったですから。おかげでこいつも私も丸くなりましたよ。こうして一緒に先生にお線香あげに来れるのも幸せです」
30年も経って、いまだにそう言っていただけるのは、母も養護教諭冥利に尽きます。
見えづらくなった子どもたちの心
「こちらこそいいお話を聞かせていただき本当にありがとうございました」と筆者はお2人に頭を下げ、母がよく言っていた言葉を思い出したのでお伝えすることに。
「そうそう! うちね、すぐそこが国道でしょ。夏に私が帰省するとね、昔ほどじゃないけど、いまだに暴走族が何台かすごい音出しながら走っていくんですよ。そのたびに母がね、軽く目を閉じて“あぁ~癒される”って言っていたんですよ(笑)」
これには一同大笑い。
母が退職する頃の学校事情というのは、この親子の激動の時代と180度環境が変わっていました。学校で大暴れする生徒の時代から一転、生徒がみんな大人しくなってしまったのです。
一見、「いい子ばかりでいいではないか」と思うかもしれませんが、実はそうではないのです。先生どころか、親も知らないうちにひっそりと自殺をしてしまう、すべて自分の心に閉ざしてしまい、心を病んでしまう生徒が増えているというのです。おとなしい子どもは大人にとっては都合のよい子であるかもしれませんが、こんなつらいことはありません。
「昔の子どもたちはわかりやすい形で主張があった。今は本当にわかりにくく見えづらいからそれが怖い。だから暴走族の音を聞くと、癒される」
今の時代では、「目立たないものほど気にかける」という気持ちが、見守る大人に必要なのかもしれません。
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