· 

自業自得媒体「NHK」の不必要性

「公共財」と「私的財」の違いは

コロナウイルスの感染拡大時、日本のテレビに映るのはNHKも民放も一様に「今日の感染者数と死者数」「コロナウイルスを防ぐ生活情報」でした。どの局にチャンネルを変えても、内容はまったく同じ。これで「民放」と「公共放送」の違いは何かあるでしょうか。

「今日の感染者数」「コロナウイルスを防ぐ生活情報」がずらりと並ぶテレビ画面を見て、思い出した光景があります。2011年の東日本大震災と原発事故をめぐる報道です。あのときもNHKと民放は毎日「今日の放射線量」「放射線被曝を防ぐ生活情報」を朝から晩まで流していました。日本のマスコミは10年間いっさい進歩がない、ということでしょう。

NHKの公共性を考える際、「公共財」と「私的財」を区別する判断が生きる格好の事例があります。2019年8月1日に愛知県内で開幕した国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」です。

企画展「表現の不自由展・その後」をめぐる論争から、75日間の開催予定が、わずか3日で中止になりました。同企画展には慰安婦を表現した「平和の少女像」や昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品など、20数点が展示されていました。「表現の不自由」をテーマに過去に文化施設で展示不許可になって撤去された作品を見せ、「表現の自由」について議論を起こす狙いがあった、といいます。

ある分野への公費支出が正当化されるか否かを考える理論的根拠が、公共経済学です。芸術文化への公費支出についてもすでに研究がなされており、ボーモル(W.Baumol)とボーエン(W.Bowen)による1960年代の研究が嚆矢(こうし)でした。

学者の最大公約数的な理解として、文化的な財・サービスは「準公共財」であるとされています。私的財と公共財の両方の性質を抱えた準公共財は、「市場の失敗」によって最適な資源配分が実現されにくい(社会に不都合が生じる)ことがあるからです。

芸術文化は純粋私的財ではないため、最適な社会的供給のためには公的支援の必要性が正当化されると同時に、社会的な判断をも要求される。「表現の自由があるから、どのような内容であれ公費支出を受けられる」という話ではないのです。

国民の納得・了解があるかどうか

例えば国公立大学に公費投入が許されているのは、「大学で価値ある教育が行われている」と国民が見なしていることが前提です。国民の納得・了解が得られない状況に陥れば、国公立大学であろうと民営化され、公費投入がなくなることもありえます。あくまでも「国民の納得・了解があるかどうか」がポイントなのです。

すべての公費支出には議会の承認(民主主義のプロセス)が必要であり、そのためには国民の納得・了解が必要になる。芸術祭への支出においても例外ではありません。こうした公費の大原則について、検討委員会で議論された形跡はなく、報告書も「公費支出は当然」という結論ありきの立場で書かれている、ということです。

放送についても、同じことがいえます。「準公共財」にあたるNHKが「公共放送」の名にどれほど固執したとしても、国民の一部にしか恩恵をもたらさないメディアであれば、受信料というかたちで公費を支出する理由はありません。多くの国民が賛同し、広く便益を与えることが、真に「公共」の名に値する放送です。

NHKが番組を放送するうえで、本当に受信料という「公費」を払わなければならないのか。CMを入れてはいけないのか。インターネットの配信では駄目なのか。これらの問いは今後、NHKにますます重くのしかかってくるはずです。

もちろんNHKは現行の放送法で広告収入を得ることが禁じられているので、放送法の改正は当然、必要です。インターネット同時配信サービスが普及した時点で、黙っていても放送法の改正を求める声が視聴者から上がるでしょう。

受信料の約1割が徴収に当てられるムダ

NHKは「公共放送」という名のもとに、「受信料を払わない人はNHKを見なければよい」というスクランブル放送を求める意見も、頑なに拒否しています。

しかしインターネットが中高年層にまで普及しはじめた現在、テレビを見ない人の数は増える一方です。結局どちらの主張が優るかは、考えるまでもありません。

受信料やハードを通じた課金が現実的に困難になることを考えれば、最もニーズが高く収益化が容易なのはインターネット広告です。よしんば国民から受信料を取りつづけるとしても、収入の柱を広告収入に転換することで、受信料の徴収コストは劇的に低減します。

2017年度のNHK受信料収入6889億円のうち、徴収コストは735億円で、収入の1割超が契約や徴収の経費に費やされています。735億円ものお金を無駄な費用と思えないとしたら、やはり常識的な経営の感覚から逸脱している、といわざるをえません。