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今必要な力とは【地頭力を鍛える】

新型コロナウイルスは、人間の生命や医療システムへの脅威となっているとともに、水面下で私たちが信じてきた常識や価値観を根本的に揺るがしつつあります。

 

例えば「グローバル化やデジタル化で人の移動が自由で活発になる」「都市化と過疎化の流れは止められない」「対面が基本でリモートはそれを補完するものである」といったことです。

「ピンチはチャンス」とは言い古されたことですが、いまがまさにその時期と言えます。

上記の大変化に加えて、世の中に「解決策がない大量の困りごと」が発生している現在は、これまでの常識や価値観にのみ依存して「嵐が通り過ぎるのを待つのみ」という人たちには大ピンチとなります。

一方で、この変化に対応する新しい事業を考える人たちには「千載一遇の大チャンス」へと変えることも可能になります。

それらを分けるのが、「無知の知」を意識することによる「思考回路の転換」なのです。

【WHAT】ソクラテスだけが「無知」を自覚していた

「無知の知」とは何でしょうか。思考に関するキーワードの中でも最も重要なのが「無知の知」です。ギリシア時代にソクラテスが唱えたとされる概念です。

古代ギリシアで最も賢者であると言われた哲学者、ソクラテス(紀元前469年ごろ~紀元前399年)は、自分自身では「そんなはずはない」と考えました。

そこで当時賢者であると言われていたほかの人たちと話をして出した結論が「自分はほかの誰よりも何も知らないことを自覚している」ということでした。これが「無知の知」という概念です。

この言葉、思考回路を起動するうえでの重要度はほかのキーワードと比べて何倍も大きいもので、その大切さはいくら強調しても強調しすぎることはないでしょう。

逆に言うと私たちは「自分は何でも知っている」と、とくに中途半端に知識がある分野で思ってしまう傾向が強いので、それに対する戒めとしてつねに心に留めておくべきと言えます。

思考とは純粋に自発的な行為です。「考える」という動詞に枕詞としてよく用いられるのが「自分の頭で」という言葉です。この言葉どおり「考える」ことは他人に強制されるものではありません。そこには何らかの自分なりの動機が必要で、それがいわゆる「気づき」と言われるものであり、思考においては「無知の知」=気づきと言ってよいでしょう。

「知らない」という自覚があれば、新しいことを学ぼうという未知なるものへの関心の源になり、それが知的好奇心になります。知的好奇心があるからつねに思考回路が起動するのです。

無知の知を強く自覚している人と自覚していない「無知の無知」の人では、日常の行動において、例えば以下のような違いが現れます。

・「無知の無知」の人はよく話すが、「無知の知」の人はよく聞く。
・「無知の無知」の人は知れば知るほど自分が賢くなると思い、「無知の知」の人は知れば知るほど自分が愚かに見えてくる。
・「無知の無知」の人は過去の経験を重視するが、「無知の知」の人は過去を踏まえてつねによりよい未来を考える。
・「無知の無知」の人は他人にあれこれ意見するが、「無知の知」の人は中途半端に口を出さない。
・「無知の無知」の人は「自分が正しい」とつねに自信満々だが、「無知の知」の人は「自分は間違えているかもしれない」と自分に疑いを向ける。

ちなみに、2つ目の項目に関連して、「能力の低い人ほど自己評価が高い」という認知バイアスは、「ダニング・クルーガー効果」として知られています。

ラムズフェルドが示した「未知の未知」

「無知」あるいはその対象としての「未知」に関して1つ紹介しておきたいのがアメリカの元国務長官のドナルド・ラムズフェルド氏が2002年2月の記者会見でイラクにおける大量破壊兵器の存在について問われた際に残したことで有名になった以下の言葉です。

その発言の文脈から、発言当時は必ずしも肯定的にはとられなかった言葉ですが、無知や未知について考える際に示唆に富む発言と言えます。

「まず自分が知っていると知っている「既知の既知」(known knowns)がある。そして次に知らないと知っている「既知の未知」(known unknowns)がある。それに加えて知らないことも知らない「未知の未知」(unknown unknowns)というものもある」

「無知の知」との関連で言えば、知の世界を3つに分けて、とくに「未知の未知」という「知らないことすら知らない」領域があることを明示的に示しました。「知らないと知っている=既知の未知」と「知らないことも知らない=未知の未知」の区別を明確にしたところに、ラムズフェルドの言葉の意義があります。

実際に本当に(天文学的に)大きいのは「未知の未知」の領域のはずですが、とかく私たちは「既知の未知」の領域を未知の領域と思いがちです。ところが実際に圧倒的に大きいのが「気づいていないことすら気づいていない」領域です。そのことを認識している人は安易に物事を自分の経験と知識だけに基づいて判断したりしません。これが「無知の知」を実践することになります。

ここまで述べてきた「3つの領域」を普段の仕事に当てはめると次のように定義することができます。

「問いがあるか?」「答えがあるか?」。答えがあるか、ないかで考えると「問いも答えもある」のが「既知の既知」でこれは仕事でいうところの「ルーチンワーク」になります。

続いて「問いはあるが答えがない」という領域はいわゆる「既知の未知」で「問題解決」の対象領域です。

最後の「問いも答えもない」のが「未知の未知」で「問題発見」の領域になります。

要は「問題解決」とは「既知の未知」を「既知の既知」に変える行為で「問題発見」が「未知の未知」を「既知の未知」に変える行為です。

「アルファ碁」に代表される近年のAIの発展のインパクトは、「問題さえ明確に定義されてしまえば、あとはAIが問題を解いてしまう」という点にあります。これは機械が人間より優れた能力を発揮する領域が「既知の既知」の領域のみならず「既知の未知」にも足を踏み入れ始めたことを意味しています。

その意味で人間が優先的に取り組むべき課題は、「未知の未知」の領域に目を向ける、つまり問題発見になってきていることになるでしょう。

ところが私たちは日常、「既知の未知」をもって世界のすべてであると勘違いしてしまっていることがあります。例えば、リスク管理における「想定外」という言葉は、それを端的に示しています。「未知の未知」を意識するとは、つねに「想定外を想定しておく」ことを意味しています。

また、それに関連して、近年、情報漏洩の発覚で企業の謝罪会見等が行われて、その「管理の甘さ」が指摘されたりしますが、むしろ「漏洩されたことがわかっている」ということは、それなりに管理が行われているからで、本当にまずいのは「漏洩されていることに気づいてすらいない」企業であることは明白でしょう。

もう1つ例を挙げます。「あの人は裏表がない人だ」という表現がよく用いられますが、よく考えると、これもある意味で「無知の無知」を露呈した言葉と言えます。そもそも「裏表がない」と信じている時点で「実はその人には(誰にも見えていない)裏があるのかもしれない」という仮定を放棄していることになるからです(ミステリーの犯人はたいていこのような「裏表がなさそうな人に実は裏があった」というパターンです)。

さらに言えば、大きな災害や事故が起こったときに多くの人が口にする「ここまでは想定していなかった」というものがあります。東日本大震災のときの地震や津波しかり、です。

コロナ後の「未知の未知」に対応できるか

ここまでお話しすれば、今まさに私たちが直面している新型コロナウイルスに伴う状況が(ビル・ゲイツや一部専門家のような人たちを除けば)この想定外だった「未知の未知」の領域に属することであると言えます。もちろん「想定できないことを想定しておく」のが無知の知のスタンスだとしても「それがいったい何なのか」を予想することはできません(予想できたら、それは「既知の未知」になるからです)。

それならば「結局、準備ができない」という点では同じだから、「無知の知のスタンスに何の意味があるのか?」と思った人もいるでしょう。違いが出るのは、このような「未知の未知」を見たときの対応においてです。

「既知の未知」までしか普段見ていない人は、このような「未知の未知」に直面したときにその状況をいつまでも認めることができずに否定にかかります。ところが逆に「無知の知」を意識している人は、このような状況に直面したときに「自分の考えが甘かった」あるいは

今回の新型コロナウイルス問題に当てはめれば、大きく2通りに反応があることに気づけるでしょう。1つ目の反応は、あくまでもこれはイレギュラーなものだから、「嵐が通りすぎるのを待って通常に戻るのを待つ」というものです。対してもう1つの反応は、「もしかするとこれが新しい常識かも知れない」という認識で、自らのビジネスや価値観を現状に合わせて(破壊的に)変えてしまおうというものです。テレワークへの対応の違いがわかりやすい例です。

もはやコロナ関連のリスクは「既知の未知」の範疇に入ってきました。さて次の「未知の未知」はいったい何なのでしょうか? むしろ災害後は皆「羮(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」状態になるため、いまや「猫もしゃくしもオンライン化」となっていることを考えれば、例えば、次の脅威はコンピューターウイルスによる「世界同時感染」なのかもしれません(そう言葉にした時点でこれはもう「既知の未知」です)。想像もできないものである可能性もありますが、想定できることは「想定できないことが起きる」ということだけです。

もちろんこれはポジティブなことにも当てはまります。現状の「既知の未知」は経済や教育環境の悪化などのネガティブなことばかりかもしれませんが、逆に「想定もしていない良い未来」が来る可能性も領域によっては十分考えられます。

このように、つねに「未知の未知」の領域を意識した「無知の知」の姿勢でいることで、イレギュラーな事象についても変化を恐れず柔軟な対応を考えられるようになり、思考停止に陥るのを防ぐことにもなるのです。