311あれから9年 分団長時に起きた悲劇

脳裏に焼き付く東日本大震災

いつもお読みいただきありがとうございます。

 

ひでどんです。

 

まずは、被災され未だ不自由な生活を余儀なくされてる皆様、日々復興にご尽力いただいてる関係各所の皆様にお見舞い申し上げます。また、震災により、お亡くなりになった方々に対し、ご冥福をお祈りします。

 

 

あれから9年が過ぎました。・・・

 

忘れることができない出来事・・・・

 

当時わたしは「自治消防団分団長」を務めていました。

 

自治消防団とは、在住している地区のボランティアからなる組織で、普段は別の仕事をしながら、火災・水害・震災などが発生したときに活躍する「素人集団」です。

 

素人といっても、住民のために、役立ちたいと志も高く、一致団結力は何事にも勝るものでした。本職が終わってからの消火訓練や操法大会に向けての練習など、ほんとうに大変でした。今となっては本当にいい経験で、信頼でいる仲間が出来たことが、一番の収穫でした。

 

そして、9年前の3月11日に東北地方太平洋沖で発生した、「東日本大震災」・・・・・・

 

当時、自宅から車で片道一時間かかる場所の会社に勤めていました。営業をしていたので、発生時にはお客様の自宅で商談中でした。※茨城県在住です。

 

そして

 

「ゴーーゴーーーゴーーーー」と長い揺れがはじまり、次第に立っていられなくなるほどの揺れが襲いかかりました。

 

急いで外にでると、家の屋根瓦が落ち、塀なども倒壊していました。遠くには家の倒壊も確認できました。

 

「これはえらいことになった!!」

 

と、急いで事務所に戻り、被害の確認と、同僚の無事を確認し、地元に戻るため車に飛び乗りました。

 

電気が遮断され、信号も機能しない状態で道路は陥没した場所があちらこちらに、大渋滞が至るところで発生し、自宅に着くまで5時間くらいかかったと思います。

 

そして

 

自宅の被害と家族の無事を確認したところで、団服に着替え、詰所と呼ばれる消防小屋にいきました。

 

本部と連絡をとりながら、消防車のマイクから情報を発信しながら地域の被害状況の確認と、同時に被災者を助けていました。

 

今思うと、よく対応できたなと思います。なので、この時の体験は色あせることなく脳裏にやきついてます。

 

そして、発電機を作動させ、TVをつけた瞬間に目に飛び込んできたのが、

 

大津波による被害の凄まじさ・・・・・

 

言葉を失い、「現実なのか?」と絶望感と悲しみがいっきに押し寄せました。・・・・・

 

すぐに助けに行きたいと思いながらも、ここは地元のインフラ復旧と被災者を助けるのが優先だと鼓舞し、最新情報を随時確認しながら、任務を遂行しました。

 

みんなの協力もあり、なんとか乗り越えられました。

 

あの日あの時、場所は違くても、地震の体験と衝撃は、みんな共有できたと思います。

 

あれから9年が過ぎ、未だ爪痕がのこる、被災地・・・・・。

 

そして、原発事故により、危険区域となった被災者のみなさま・・・・

 

今も放射能と戦っている現場の関係者・・・・

 

復興に日々努力している方々・・・・

 

わたくしの地元も普段の生活を取り戻し、何事もなかったかのように時が過ぎています。

 

被災地は、まだまだ復興には程遠い状況下において、2020年7月に開催する「復興オリンピック」が無事に行われ、被災地の皆さまに元気と勇気を届けられればいいなぁと思います。選手の皆様のご活躍を期待します。

 

その「復興オリンピック」の開催是非をめぐり、ウィルスとも戦っています。

 

「3・11」と今の苦難をみんなで乗り越え、今こそ一致団結し、よりよい日本になるよう心から願います。